「こんばんは」
大きなコの字カウンターの中で、割烹着を着たふたりが同時に振り返る。手前に置かれた鍋からは湯気がたちのぼり、中には何十本もの串がぐつぐつ。外まで流れてきた良い匂いの正体は、このどて煮だったのだ。
「いらっしゃい。お電話くださった武塙さん?」
緑色の手ぬぐいをくるくると首に巻き付けて眼鏡をかけている猫さん。ああ、こちらがトラさんだ。
「はい」
「遠くからわざわざどうも。寒かったでしょ。こっちこっち。お好きな席にどーぞ」
赤い手ぬぐいを巻いたミケさんに促され、六つ並んだ丸椅子のうちのひとつに腰かける。
「ありがとうございます。ここ、常連さんの決まったお席ではないですか」
一瞬ふたりはきょとんとし、そのあとあーっはっはと大きな声で笑い出した。
「そんなのないの。来てくれた人から順に適当に好きなところに座ってもらえばいいんだから気にせんで」
ついにやって来た憧れのお店に実はかなり緊張していたのだけれど、そんな空気はトラさんとミケさんがいとも簡単に笑い飛ばしてくれた。
「じゃあ生ビールをください」
「はいはい」
「それからどて焼きとこんにゃくと串カツをお願いします」
「はい。串もんは二本セットだけどいいかしら」
ふたりは、てきぱきとあっという間にビールのジョッキとどて焼きのお皿を準備してくれた。さっそくどて焼きを一口。
「とろとろですね。美味しい!」
味噌だれがしっかりしみこんでいてほんのりと甘い。これは何本でもすいすい食べたくなってしまう。
「うちはね、串打ちもぜんぶ自分たちでしているの」
「串打ちってかなり重労働だと聞いたことがあるんですが」
「でもお父ちゃんの味は守らないとね」
ミケさんの言葉に、こくりと頷くトラさん。鍋の湯気で眼鏡が曇っているけれどきっと笑顔に違いない。それにしても、美味しい食べものと一緒に飲む寒い日のビールというのはどうしてこんなに清々しいのだろう。ごくごく一気に飲んで、ぷーっと一息ついたところで、がらりと戸が開いた。
「あら、幻斎じいにシンちゃん。いらっしゃい」
自称占い師の幻斎さんとトラとミケのお隣の写真店店主シンちゃんだ。私の隣に腰をおろすなり、幻斎さんが一言。
「やあ、遠方からのお客人」
どうしてわかったんですか? 私が目を丸くすると、幻斎さんがちょいっと紙袋を指さした。皆さんへのお土産に、と買ってきた鳩サブレーの黄色い紙袋だ。
「これを見ただけで?」
「伊達に長いこと占い師をやっとらんでね」
ちょうどいいタイミングかと思い、良かったら皆さんでどうぞとカウンター越しにミケさんに鳩サブレーを渡した。
「ありがとう! 鎌倉、行ってみたいわぁ」
「いつかみんなで行こうよ」
シンちゃんの言葉に、揚げたての串カツのお皿をテーブルに置いて、トラさんが微笑んだ。
「はい、熱いから気をつけてどうぞ」
こちらにももちろん味噌だれ。注ぎ足しながら丁寧に守ってきたトラとミケの味だ。
「ありがとうございました。また来ます」
席を立っておいとまの挨拶をする頃には、店内はお客さんでいっぱいだった。ネイリストのルミちゃんは、新しいネイルのデザインが可愛いとお客様から評判でご機嫌だったし、小説家を目指している田中くんと文学の話もたくさんできた。
明日は、早起きして喫茶白樺でモーニングをする予定。復活した名物の白樺サンドを食べるのが今から楽しみで仕方ない。ふいにトラとミケから楽しそうな笑い声が聞こえた気がして名残惜しくなり振り返る。どて焼と書かれた赤提灯が風に揺れているのが遠くに見えた。
「春にきっとまたね。その時は、川原で一緒にお花見しましょ」
帰り際、トラさんが差し出してくれた温かい手を思い出す。素敵なお店だったなぁ。ご馳走様でした。
◆武塙麻衣子
たけはな・まいこ/1980年神奈川県横浜市生まれ。2024年9月に刊行した最新刊『酒場の君』が各紙誌評で話題に。現在、WEBサイト『小説丸』と文芸誌『群像』で小説を連載中。
※女性セブン2025年1月1日号