
コロナ禍で多くの飲食業が打撃を受ける中、売り上げを伸ばした注目企業がハンバーガーチェーンの『ドムドムフードサービス』です。同社を率いるのは、39歳で専業主婦からアパレルショップの店長になり、その後、居酒屋オーナーを経て、2018年に同社の社長に就任した藤崎忍さん(55歳)。普通の専業主婦だった彼女は、どうやって企業のトップとなり、手腕を発揮するまでに至ったのでしょうか? 藤崎さんにインタビュー。今回は、ドムドムフードサービス入社前までの道のりを語ってもらいました。【全3回の第1回】
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専業主婦時代は野球ママ、夢中で息子を応援
短大を卒業するとすぐに家庭にはいり、墨田区議を務めていた夫と1988年に結婚した藤崎さん。3年後に一人息子が誕生してからは、子育てに奮闘する毎日だったという。
「今でいう“お受験ママ”ですよね。小さい頃から私立にと考えて資料を取り寄せて。息子が小学校に入ると、今度は“野球ママ”。息子がリトルリーグ(硬式球を使う少年野球リーグ)のチームに入ったので、週末にはお弁当を作って車を出して、夢中で応援していました。
息子が中学生になると、週末や夏休みに合宿があったので、他のお母さんたちと一緒に宿泊先でチーム60人分の食事を作りました。泊まり込めたらよかったんですけど、家の用事もあるから車で通って。でも、大変っていうより楽しかったですよ。お料理もスポーツも大好きだから」(藤崎さん・以下同)

食事は、家庭においても特に大事にしていたのだとか。
「朝晩の食事はちゃんと作る。作りたかったんですね、私が。おかげさまで、息子は大きく育ちました。主人が(身長)170cmぐらい、私は160 cmぐらいですけど、息子は185 cmもあって、独立リーグの野球選手になりました(現在は墨田区議)」
そんな生活に変化が訪れたのは2005年7月、息子が中学3年生のときだった。夫が心筋梗塞で倒れてしまったのだ。突如として藤崎さんの双肩に家族の生活がのしかかる。そんなときに、旧友から「SHIBUYA109」内にあるアパレルショップの店長をやってみないかと打診が。就職も就職活動も経験がなかった藤崎さんだったが、迷わずそのオファーを受けた。
「せっぱつまっていたので、不安だなんて言っていられないですよね。私の経歴からすると、一般企業の正社員になるほうがハードルが高かったし、ファッションは好きだったので、これはやるしかないと思いました」
現場を観察し、課題を見つけては改善
将来は経営を引き継ぐことも視野に、まずは店舗の運営を任せたいと言われた藤崎さん。最初から経営者目線で、店舗をよりよくする手を次々に打っていった。
「現場を見て気になることを一つひとつ改善していく、それだけでした。マーケティングを学問として勉強して、それをお店に当てはめていくのではなくて、実際のお店をよく見て、やったほうがいいと思うことを実行しました。
試着室のカーテンが薄汚れているなと感じたら布を買ってきて自分でミシン縫いして掛け替えましたし、段ボールが売り場の片隅に置きっぱなしになっていたので動線や在庫管理の方法を変えました。
販促POPを手書きに変えたり、同じ型で多色展開のTシャツなどはグラデーションで並べて選びやすくしたり。お客さまに利用シーンを想像してもらうため、マネキンやスタッフにトータルコーディネートで商品を着てもらいました」

また、売上高や客単価、前年比売り上げ、時間帯売り上げなど、必要と考えたデータを一つひとつ計算してノートにまとめるように。誰に教わるでもなく、データを仕入れや陳列に生かすという方法で、売り上げを伸ばしていった。
「アパレルショップ時代の5年間、私は1日も休んでいないんです。毎日現場に立っていたら、一番いい位置によく売れる商品を並べたいと思うじゃないですか。とはいえ、オーナーにも思い入れがおありですから、数字を見せて説得していました。データを大事にしていたのは、経営学からきたものではなくて、現場でそれが必要なことだったからなんですよね」
専業主婦時代は人に尽くせる心を育ててもらった時間
経営やマーケティングを体系的に学んだわけではないのに、迷走することなく理にかなった行動に行き着いた理由を、藤崎さんはこう話す。
「普通のことなんですよ。家庭の主婦だって、とんでもないマルチタスクをこなしています。誰に習わなくても、合理的にやるべきことをやっている。夫の帰宅時間から逆算して食事の準備をして、その前にあれとこれをって。家族に心を尽くすのも、仕事に心を尽くすのも同じこと。だから、今思えば専業主婦時代って私にとっては、人に尽くせる心を育ててもらった時間だった気がします」

結婚や出産、あるいは介護などを機に退職や休職を選択することに社会から離脱するような不安を感じる人も世の中には少なくないが、「そんなふうに不安を抱えなくてもいいと思います」と藤崎さんは言う。
「確かに、会社で働き続けることで鍛えられていくスキルはあるし、成長もあると思いますが、家庭でマルチタスクをこなしながら家族が健やかでいられるように愛情をそそぐことで人として成長できるはず。成長した心を持って、また仕事に復帰すればいいと思います。こっちはこっち、あっちはあっちじゃなくて、全てはつながっているんです」
物事のポジティブな側面に目を向ける
アパレルショップの売り上げは藤崎さんが店長を務めた5年の間に2倍近くまで拡大。しかし、オーナーの経営方針変更により、退職することに。次なる仕事を藤崎さんは飲食業に求めた。最初は新橋の居酒屋で時給1200円のアルバイトを。バイト生活5か月目には独立を決意し、3~4か月の準備期間を経て2011年5月、自身がオーナーの居酒屋を開業した。
藤崎さんは「自分の置かれた環境や得意なこと、できないことを整理した結果、飲食業を選びました」と振り返る。
「当時44歳で、これから新入社員になって、Excelもほとんど使えない英語も話せない私が、家族を養えるだけのお給料を会社からいただけるのかと考えると、それは不可能。だったら、長年やってきた家庭料理の腕を生かして起業するほうが収入は得られると考えたんです」

とはいえ、まとまった額の融資を受けることや、組織に属さずに一人でやっていくことに不安を抱いたり、“失敗したらどうしよう”とひるんだりする気持ちはなかったのだろうか。
「失敗って、もともとないんですよ。例えば、アパレル時代に主人が再び脳梗塞で倒れたのですが、その日も病院へ行って診断結果を待って、その後に会社に行きました。次の日の朝はまた病院に寄ってから会社へ行く。そうまでして働いて、いつかその会社の社長になれると思っていたんですが、それは叶いませんでした。退職の際は、それはつらい思いをしました。
ただ、最後にそうなったからといって、あそこで働いた日々を丸ごと失敗と捉えるのは違うと思うんです。だって、他では知り合えなかったであろう若い女の子たちと仲良く仕事ができて絆も生まれましたし、商売というものも非常に面白くて勉強になりました。
私は何事もプラスになったことのほうが心に残る。心に残すようにしてきたのかもしれません。もちろん、自分にミスがあれば反省すべきですが、自分の能力や言動と関わりのないところで決まってしまうものもありますよね。例えば『なぜ主人は倒れてしまったんだろう』『なぜ左半身にマヒが』『あんなに幸せだったのに』と思ったところでどうにもならない。幸せだったなら、あんなに幸せな日々を共に過ごしたこの人を今、一生懸命支えようと思うだけ。
それに、物事って必ず正負の両面があると思うんです。主人が倒れたことは本当に残念で胸が苦しくなりましたが、別の一面を見れば、私はそれがきっかけで社会に出られたとも言えるわけです。私はそういうところに目を向けたい。アパレル店も業績は上がりました、ただ事情が変わって私は会社を離れることになりました。ならそれは失敗じゃないんです。経験や友人を得られてよかったと思って次に進む。挑戦する。失敗なんかないって、そういう意味です」
開店した居酒屋は、客の気分に合わせた藤崎さん流のおもてなしと、赤ウインナーや卵焼きなどのシンプルながら心安らぐ料理がウケてまさに大成功。開店1年半で1号店の隣に2号店を出すまでに。洋風居酒屋にした2号店は、ピザやタパスなども投入し、幅広い客層から支持を集めることに成功した。
【第2回に続く】
◆ドムドムフードサービス代表取締役・藤崎忍さん

ふじさき・しのぶ。1966年生まれ。2017年11月、株式会社レンブラントインベストメントに入社し、株式会社ドムドムフードサービスに出向。翌年8月にドムドムフードサービス代表取締役に就任し、これまで培ってきた関係力をフルに発揮し、業績を順調に回復させる。ドムドムは1990年代、全国400店舗まで拡大したが、2017年にレンブラントホールディングスに事業譲渡され、現在はドムドムハンバーガー27店舗、新業態ツリーアンドツリーズ1店舗。著書に『ドムドムの逆襲 39歳まで主婦だった私の「思いやり」経営戦略』(ダイヤモンド社)、『藤崎流 関係力: 成功に導く対人の心得』(repicbook)がある。@dom_fujisaki
※藤崎の崎は「たつさき」が正式表記
撮影/小山志麻 取材・文/赤坂麻実