【女性セブン連載『骨になるまで 日本火葬秘史』第7回】明治の豪腕経営者から医師、宗教家へ―持ち主を変えながら発展してきた東京の火葬場は、昭和が終わりを迎える頃、印刷からボールペン、ゴルフ場経営まであらゆる分野に進出した“怪商”の手に渡る。そして人生の終わりにふさわしいセレモニーのための「斎場」へと進化した。ジャーナリストの伊藤博敏氏がリポートする。
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「宗教経営のもと社員の待遇を大切にし、それゆえある意味でぬるま湯的だった社風が“”櫻井イズム”によって厳しく経営刷新されるのではないか。一体、自分たちはこれからどうなるのか……緊張感が社内に走りました」
そう振り返るのは、昭和59(1984)年2月、櫻井義晃率いる企業グループ「廣済堂」の傘下に入った東京博善に身を置いていた元幹部だ。明治の豪腕経営者が整備し、医師の手にわたった後、仏教界の重鎮によって“慈悲の心”で運営されていた東京の火葬場は、昭和が終わりに近づく頃、「政商」とも「大物フィクサー」とも呼ばれた男が担うことになる。
廣済堂グループの創始者である櫻井義晃。彼は、宇都宮日綱・2代目社長の関係者が社長を務めていた昭和58年、東京博善の筆頭株主となり、翌年に同グループに入れた。60年、櫻井は会長として迎え入れられることになる。
当時の廣済堂はどんな会社だったのか。最も端的に伝えるのは、昭和56年1月31日に廣済堂主催で開かれた「各界新春の集い」だろう。
会場は帝国ホテル「冨士の間」。岸信介元首相を会長に、政官財、芸能・スポーツ界から1500人が参加した。第1部は大槻文平・日経連会長(肩書はいずれも当時)と田中角栄元首相が講演し、第2部は「どうなる景気の行方」と題した討論会で、安倍晋太郎・自民党政調会長、石川六郎・経済同友会副代表幹事、春日一幸・民社党常任顧問、桜内義雄・自民党幹事長らが論議、第3部が懇親会で島倉千代子、菅原文太、千代の富士、青木功らが華を添えた。
当時の廣済堂グループは、印刷・出版業を柱に、「ビックボールペン」などで有名なフランスの筆記具メーカーの製品を取り扱うビック部門、クラウンブランドのライター部門、クリスチャン・ディオールの時計や喫煙具を扱うディオール部門、千葉廣済堂カントリー倶楽部などを所有するゴルフ場部門を持ち、それなりに知名度は高かったが、売上高は約420億円ほどで、従業員約2200人の中堅企業でしかない。
にも関わらず各界から錚々たる顔ぶれが集まったのは、縁を大事にして、これはと思った人は世評を気にせずに取り込む櫻井の懐の深さゆえだった。
政界への起点は櫻井が「師」と仰いだ岸元首相だった。右翼大物の児玉誉士夫とは一世を風靡した東京・赤坂の高級クラブ「ニューラテンクォーター」を一緒に支える仲で、水森かおりや氷川きよしらを育てた「芸能界のドン」長良じゅんが率いる長良プロダクションも、廣済堂のグループ会社だった。さらにクラウンライターは昭和51年から2年間、プロ野球球団「クラウンライターライオンズ」(現西武ライオンズ)のオーナー企業を務め、グループの知名度向上に貢献した。
清濁併せ呑む人脈のなかには暴力団幹部もいて、山口組系後藤組の後藤忠政元組長は自著の『憚りながら』(宝島社刊)で、《櫻井さんには色んな政治家や財界人を紹介してもらったし、本当に勉強になった》と、その関係を暴露している。表裏を操る経済人にしてフィクサーだった櫻井はガッシリした体と気の短さで知られたが、情の深い苦労人でもあった。いまも彼を「オヤジ」と呼んで慕うグループ会社元代表が語る。
「自転車で鉛筆を一本一本、売って歩いたという苦労話はよく聞かされました。行商で学校のそばの文房具店を回り、鉛筆を置いていく。繁忙時には店の手伝いをしてご主人に気に入られ、学校を紹介され謄写版(コピー機が普及するまで主流だった印刷技術、いわゆるガリ版)を売る。それが櫻井廣済堂の出発点なんです」
「廣済」に込められた亡き父への思い
櫻井は大正10(1921)年1月、京都に生まれた。父・文太郎は夜泣きうどん屋から身を起こし、櫻井が生まれた頃は京都市左京区の住居兼事務所で、最盛期は50頭の馬を抱えた馬車運送の会社を経営していた。昭和に入る頃からは高級外車を備えたハイヤー会社となり、霊柩車も置いて葬送業を手がけるようになった。
京都の花山火葬場、蓮華台火葬場などの改築工事も行った。同時に文太郎は熱心な浄土真宗の信徒であり救貧事業、葬儀の無料奉仕などを行う櫻井廣済会を発足させた。「廣済」とは「広く済(すく)う」という意味である。
しかし昭和8(1933)年、文太郎は出張先の滋賀県で倒れ、63才で生涯を終えることとなる。
当時、櫻井は尋常小学校を出たばかりの12才だった。大黒柱の死で家は困窮し、櫻井は京都市の商業実修学校へ入学。16才で市内の呉服屋に勤めるものの、数か月で飛び出して上京、鉛筆販売店に身を置く。それが前述のグループ会社元代表が明かしたエピソードで、「想えば想われる。相手から好かれること自体が目的化した生き方は、行商によって体得した」と後に社誌などで語っている。
その後、召集令状によって中国に出征。敗戦翌年の昭和21年5月、4年ぶりに日本に戻ってきたとき、櫻井は25才となっていた。鉛筆販売店で働いたときの縁で謄写版の会社に入り、昭和24年、櫻井謄写堂を創業する。以降、戦後復興の活況のもと国鉄、官公庁、民間企業と販路を広げ昭和29年、有限会社櫻井廣済堂を設立した。「廣済」に父への思いが込められていたのは言うまでもない。
その後も高度経済成長の波に乗り、オイルショックなどの危機を乗り越えて多業種を傘下に収め、グループを拡大していく。労働組合は認めず、その代わりに櫻井を会長として《(廣済堂の)同志として血盟を固く誓う》と謳う「同志会」を結成させた。それが廣済堂を知る人をして“櫻井教の会社”と言わしめたゆえんだろう。
人の一生の終わりがいまのままでいいのか
独裁体制で強気の経営を行う清濁併せ呑む怪商。世評は「怖い人」だった櫻井に、どう経営を“刷新”されるのか――当時の東京博善社員は戦々恐々としていた。
櫻井は、東京博善の社風と独自性を尊重しつつ、刷新を進めた。かつて明治20(1887)年、初代社長・木村荘平が東京博善を立ち上げたとき、書家の巌谷一六が書いた「博善」の大扁額は町屋斎場にいまも残っている。「善」を「博(ひろ)める」という社名に込められた思いは「廣済」に通じるものがあるからだろう。
昭和61年4月14日、帝国ホテルに1400人のグループ社員を集めて行われた春季全国大会で櫻井はこう述べた。
「(東京博善の)立て直しを考えた第一は、煙突をなくすことである。地域の人たちを考えれば、亡骸を焼く煙を目にするのは抵抗があるだろうし、地震による倒壊ということも考えなければならない。(中略)火葬場そのものをお通夜や葬儀ができる斎場に変えればいい。もうひとつ考えたことは、結婚式があれほど華やかにセットされているのに対して、人の一生の終わりがいまのままでいいのだろうかということだ」
煙突をなくして火葬場のマイナスイメージを払拭するとともに、人生最期の儀式にふさわしい葬儀ができる斎場を設置する―火葬場の近代化である。
櫻井はその宣言通り、四ツ木斎場を全面的に建て替え、平成元(1989)年2月に完成させる。その後、堀ノ内(平成4年完成)、町屋(平成6年)、落合別館(平成6年)、代々幡(平成8年)、桐ヶ谷(平成10年)、落合本館(平成12年)と12年をかけて東京博善が運営する「火葬場」は煙突のないホテルのような外観を持ち、家具・調度品にも気を配った「斎場」へと姿を変える、それに伴い収益力も大きく飛躍した。
東京博善の独自性を認めつつオリジナリティーを存分に発揮し、浸透させた櫻井が、最後に指名した社長が浅岡眞知子だった。宇都宮日綱・2代目社長の遠戚で、離婚後の昭和59年に中途入社した。
最初は戸惑うことも多かったが、仕事に慣れると頭角を現し、櫻井に引き立てられた。浅岡が櫻井との思い出を語る。
「会長から話を頂いたときは悩みました。『私にできるだろうか』と。でも櫻井会長は火葬場職員の差別環境を改善させ、『東京博善で働いている』と胸を張って言える会社にしたいと言って火葬場のイメージを変えていった。お気持ちに応えなければと思いました」
浅岡の社長指名を最後の仕事にして、櫻井は平成16(2004)年11月13日、死去する。83才だった。浅岡は翌月の株主総会で社長に就任。不安だらけのスタートだったというが、在任期間は長かった。平成30年の退任まで約14年に及ぶ。その理由を元幹部はこう説明する。
「社内では東京博善と社員の地位向上に努め、社外では葬儀業界や宗教界との良好な関係を維持しました。現状維持に注力することで、逆に23区内火葬場の独占的地位を守ったんです」
しかし親会社の廣済堂とすれば不満だった。売上高約80億円、営業利益約30億円と抜群の安定感と収益率を誇る会社だったが、事業範囲を広げて売上高を伸ばすなど「独占のメリットをもっと生かせないか」というのが言い分だ。
だが、簡単に事業範囲は広げられない。墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)は火葬場に「公共の福祉の見地」を求め、厚生労働省通達は、「火葬場の経営主体は原則として地方公共団体で例外的に宗教法人、公益法人」が認められた。つまり必要以上に収益を求めない「公共インフラ」として事実上の“制限”を受けていた。それに理解を示そうとしたのが当時の廣済堂の平本一方会長と長代厚生社長だった。
「『俺たちに火葬の話はわからん』とおっしゃるので、毎月、わかりやすい資料を作成してご説明にあがっていました」(浅岡)
平本もまた戦後を象徴する人物である。東京日日新聞の記者だったが、昭和29(1954)年、高利金融で財を成し「金融王」として名を馳せた森脇将光に惚れ込まれて秘書となる。森脇は金融業者として得た情報から「森脇メモ」を作成し、昭和29年に発覚した大規模な汚職事件である「造船疑獄」を告発し、火付け役となる。その一方で、書類偽造や脱税などで逮捕起訴されたこともあった。平本は森脇が金融業者としての独自の調査能力を生かした出版部門の「森脇文庫」や「週刊スリラー」の責任者として恐れられた。
平本は新聞記者時代から櫻井とは「気の合う呑み友達」だったが、昭和55年以降、廣済堂が出版・印刷・ゴルフ場などを傘下に収めるのに伴い、仲介した平本を役員として廣済堂に迎え入れた。以降、平本は櫻井の右腕となる。
“普通の会社化”がもたらした火葬の新局面
平本は平成25年6月、死去する。85才だった。その3年後、廣済堂一筋に生き、櫻井の死後11年間にわたって社長を務めた長代が退いた。
「櫻井の廣済堂」の時代は終わり、「金の卵」を生む東京博善への干渉が始まる。具体的には僧侶経営の“名残り”を引きずる浅岡の放逐である。工作を担ったのは三井物産出身で三井石油元社長から廣済堂入りして平成30年6月、社長に就任した土井常由だった。当時、僧侶株主の一員として東京博善の社外取締役を務めていた法善寺住職の中山斉が経緯を語る。
「(平成30年の)株主総会で浅岡さん解任の話が出ていました。私は、『何が問題ですか』と申し上げた。業績が悪いわけでも不祥事など問題が生じたわけでもない。しかし土井さんは『アンケート調査をしたところ社員満足度が低く職場環境がよくない、という結果が出た』というんです。社長解任の理由とも思えない。“単に辞めさせたいんだ“ということがわかりました。だから私もそのとき、取締役を降りたんです」
退任理由に関して浅岡の認識は違う。土井からは「(東京博善の役員定年は80才だが)廣済堂は65才なのでそれに従ってもらう」と言われたのだという。ちょうど浅岡は65才を迎えていた。
ただこのとき、東京博善は以前、廣済堂に貸し付けた200億円の残金が90億円分残っており、浅岡はこの問題にカタをつけるために社長継続の意向だった。しかし土井の姿勢は強硬で、浅岡は退任を余儀なくされた。
戦後の混乱と復興を象徴する怪商・櫻井の時代が終わると、“得体の知れなさ”もあった廣済堂の「普通の会社化」が進む。
それゆえに、東京博善という“ドル箱”を抱えた廣済堂は買収合戦にさらされ、さらにはその結果としての「資本の論理」により、現代の東京の火葬は新局面に突入することになる。
【プロフィール】
伊藤博敏(いとう・ひろとし)/ジャーナリスト 1955年、福岡県生まれ。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件をはじめとしたノンフィクション分野における圧倒的な取材力に定評がある。『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(小学館)、『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)など著書多数。
(文中敬称略)
※女性セブン2024年8月22・29日号