
【女性セブン連載『骨になるまで 日本火葬秘史』第2回】「弔い」は、人間生活の終着点であり、人間社会の実情に多大な影響を受ける。新型コロナウイルスのパンデミックが社会を襲ったとき、火葬もまた、大きな岐路に立たされた。家族や知人に囲まれての別れから、たったひとり、「非透過性の袋」に入れられての旅立ちへ──。ジャーナリストの伊藤博敏氏が、弔いの終着地である「火葬」を誰が担い、どう行われてきたかを明らかにし、新時代の「送り方・送られ方」を考えていく。
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家族の死に目に会う──永遠の別れは悲しいが、最期を看取るということは旅立つ人のためだけでなく、残された人が自分の気持ちを整理するためにも必要なものだろう。しかし、新型コロナウイルスはそれを奪った。
当時、ほとんどの病院が集団感染を恐れて「ひとり1日5分」という具合に面会を制限した結果、多くの人が家族に看取られることなく最期を迎えた。
それは喜劇タレントとして多くの人に愛された志村けんも例外ではなかった。
志村が体調不良で活動休止に入ったのが2020年3月17日。20日に入院して24日に人工心肺装置「エクモ(ECMO)」のある国立国際医療研究センターに転院したが、治療の甲斐なく、病院でひとり亡くなった。遺体となった後も家族は対面が叶わず、霊安室に運ばれ納体袋に入れられ、棺に納められた。その後、火葬場に運ばれてなお遺族の立ち会いは拒否される。完全防護服の職員が納炉のうえで火葬し、それを骨壺に入れた段階で初めて“再会”できたのだった。
「遺骨はまだ温かいです。火葬の前に顔を見られなかったのは残念ですが、新型コロナウイルス感染防止のためにはやむを得ない」
火葬場から受け取った骨壺を紫の袋に包んで抱え、兄・志村知之は東京・東村山市の自宅前で取材陣にこう語った。緊急事態宣言の直前、2020年3月31日の夜だった。
未曽有のウイルスはレジャーから教育現場まであらゆる生活様式を変容させたが、「弔い」も例外ではない。病院でも火葬場でも顔を見ることができず、骨も拾えない──志村の葬儀は、感染症の持つ怖さを多くの人に周知させ、葬儀の在り方を大きく転換させる1つの契機となった。

遺族立ち会い不可は「人道的にどうなんだ」
高卒後、ドリフターズの付き人から始めて、『8時だョ!全員集合』(TBS系)に出演して人気者となった志村は、「バカ殿様」や「変なおじさん」を演じ、舞台演劇『志村魂』で座長を務めた日本を代表するコメディアンだった。
同時に、連続テレビ小説『エール』(NHK・2020年3月放送開始)で西洋音楽の作曲家を演じ、山田洋次監督の映画『キネマの神様』で初主演を務めることが発表されるなど、70才にして俳優として新境地を開きつつあった矢先の死だった。
突然の訃報に強い衝撃とやりきれなさを感じたファンは多く「最期ぐらい看取らせるべき」「お骨になっても感染するのか」といった批判が火葬場にも寄せられた。
志村の遺体を火葬した「落合斎場」は東京・新宿区上落合に位置する。火葬炉に入る棺を見送るための「炉前ホール」や、火葬された骨を骨壺に納める「収骨室」の面積別に3つのグレードの火葬炉を10基持つ大規模な斎場だ。
その落合斎場を運営する東京博善は、2020年3月11日から新型コロナで亡くなった人の遺体の受け入れを開始した。
当時を振り返るのは施設本部長としてコロナ対応にあたった川田明・元常務。2020年6月に退任し、現在、火葬コンサルタント「川田事務所」を経営する。
「あの頃はまだコロナが正体不明で、どうすれば安全か誰も言ってくれないときでした。しかし、もし火葬場内でクラスターが発生すれば火葬場を閉鎖することになる。そうした中で我々は最大限の対応、対策をしなければならなかった」
日本中が右往左往する中、コロナの火葬対応を始めるに伴い、まず定めたのは《遺体の受け入れ条件》だった。開始時間は一般の火葬より後にずらして午後4時。1日あたりの対応は2件。立ち会い会葬は業者を入れて5名まで。
しかしその後、ウイルスの正体がわからないまま感染者数が増えていく中、「火葬場クラスター」を避けるために遺族の立ち会いを完全に禁止せざるを得なくなった。
「一般の来場者のかたの安全管理はもちろん、職員の安全も大切です。そこで、『お別れは医療機関やそれに類するところで済ませて頂きたい。立ち会いはご遠慮する。それが(火葬の)受け入れの条件です』と葬儀社さんに申し上げた。そしてその『立ち会いお断り』をお伝えした対象者の中に志村さんがいて、マスコミを中心に『人道的にどうなんだ』と大きな批判が巻き起こりました」(川田・以下同)
厚生労働省はそうした世論をくみ取り、2020年3月下旬「遺体はウイルスが付着した血液や体液などを通さない非透過性の袋に納めることが望ましい」としつつ、遺族の意向に配慮し「極力そのままで火葬するよう努めてください」と葬祭業者に通達した。
「来場者や職員の安全を守ることと、遺族の意向に配慮することをどう両立させていくかは、コロナ禍において解決すべき重い課題となりました」
弔いだけがコロナ禍のスタイルのままいまに至る
志村に続き、TBSの朝の情報番組『はなまるマーケット』で司会を務めていた俳優の岡江久美子が亡くなった。2020年4月3日に発熱して6日に急変。すぐに大学病院に緊急入院してICUで人工呼吸器を装着したものの、治療が及ばず4月23日に旅立った。夫で俳優の大和田獏は、後に出演した『徹子の部屋』(テレビ朝日系)で、黒柳徹子にこう語っている。
「(面会を許されず)電話で訃報を知らされて駆けつけると、ひとりだけ面会を許されて(自分が)対面しました。もう袋みたいなところに入って、ここ(顔)だけビニールの透明なのがついてて顔は見れたんですけど、まぁそれだけだった。それで遺骨で帰ってくることになったんですけどね」
気さくで明るい人柄で知られた岡江の急死は、コロナ感染の怖さをますます印象づけた。

同時にその頃には「自粛が当然」というムードが醸成されていた。
サッカーのJリーグやプロ野球の開幕が延期され、大相撲の春場所は無観客開催となった。東京五輪・パラリンピックの1年延期が決まった。ウーバーイーツなどの宅配業者が活況を呈する一方、レストラン、居酒屋などへの時短・禁酒要請が相次ぎ、コンサート、演劇、寄席なども自粛を迫られ、あらゆるイベントが中止に追い込まれた。
大学ではオンライン授業が一般化、企業も社員に在宅勤務を奨励し、出張・会議を減らした上にオンラインで行うことが多くなった。
コロナウイルスがもたらした「接触しないライフスタイル」は年単位で継続することとなる。
ただしその後、多くの分野はコロナウイルス感染症が2類から5類に移行したタイミングで“日常”を取り戻した。スポーツ観戦に鳴り物が戻り、イベントは再開され、コンサートや演劇、パーテーションなしで外での食事や酒席を楽しめるようになった。マスク姿の人の数は減り、円安を利用した外国人観光客はコロナ前以上だ。
しかし、「弔い」だけは例外どころか、自粛が明けてなお縮小傾向や簡素化に拍車がかかっている。
バブル時代に一般的だった、会葬者の数を競うような会社を挙げての「社葬」は影を潜め、かつては少数派だった「密葬」が家族近親者と本当に親しい人だけが出席するこぢんまりとした温かい「家族葬」として生まれ変わり、主流の葬儀スタイルとなった。
そうしたコロナ禍以前から始まっていた葬儀や墓の簡素化を、自粛ムードが加速させたのだ。
火葬を一般化させたのはコレラの大流行だった
弔いの歴史を辿っていくと、コロナウイルスに限らず、感染症の流行が葬儀のスタイルを大きく変容させた事例は数多く存在する。その最たる例が江戸から明治時代にかけて何度も流行し、大量の命を奪ったコレラだ。日本で最初にコレラが大流行したのは1858(安政5)年。長崎に始まって大阪に飛び、江戸でも患者が急増し、死者数は20万人を超えた。流行のスピードは速く、1日に千里を走る虎の如きで、しかも発症すると“ころり”と死んでしまうことからコロリ(虎狼痢)と呼ばれた。
江戸時代に感染を防ぐ医薬品があるわけもなく、感染者は隔離され、死者は当時一般的だった土葬ではなく、感染対策として火葬で対処をするほかなかった。
江戸時代の火葬は、「火葬寺」と呼ばれる寺院で専門職の僧侶が運ばれてきた棺桶を荼毘に付した。安政の大流行ではその死者数があまりに多く、寺の前には棺桶が積み重なり、棺桶が足らずに酒樽で代用した。そうした教訓もあって明治になると火葬場が増えたが、まだまだ土葬が圧倒的で、火葬場建設が官民一体となって進められるのは、明治19年の1日に300人以上の死者を出したコレラの大流行の後のことである。
方形に石を置いて穴を掘り、その上に棺桶を置いて薪で焼く江戸時代から、赤煉瓦の火葬炉を高い煙突につなげた明治を経て、大正に入ると燃料は石炭、重油へと変わる。昭和に入ると火葬炉はさらに進歩し、戦後の火葬場は、煙突がなければ煙も見えない「火葬棟」として葬儀にも対応できる斎場となった。感染症対策に伴う火葬炉の進化・火葬技術の向上を推進する中で、火葬業者たちが念頭に置いたのは「お骨に対する遺族の思いを最大限尊重する」という“作法”だった。

説明するのは葬祭ビジネス研究家の福田充だ。
「日本の火葬業は、頭蓋骨や喉仏をできるだけきれいな形で残したいというある種の“信仰”を、最大限尊重して火葬のプロセスを発展させてきました。もし多少、骨が崩れても灰が残ればいいという発想ならば、高密度かつ高温で焼却すればいい。単純に時間が短縮できますし、全自動操作も可能になります」
しかし拾骨が遺族にとって大切な時間である以上、あえてそうした技術を取り入れずに伝統を守っているのだ。また、火葬炉の技術と同じかそれ以上に、火葬場職員の力量が求められると福田は続ける。
「太ってる人、痩せてる人、男と女、お子さんだっています。事故の場合は燃やすのが難しい水死体なども考えられる。そうした遺体をきれいに骨が残る形で焼くには、やはり現場の人間の手で微妙な操作をする必要がある。
ご遺族が拾骨するとき、悲しい気持ちを抱かせてはならない。きれいに残った骨を拾うことがご遺族の癒しにもなるのです」
世界の火葬場の趨勢は、焼き切って灰にすることを目的とするもの。喉仏を探し骨の状況の説明を受け、みんなで箸渡しをして骨を拾い、頭蓋骨で仮蓋をして骨壺に納めるという習俗は日本独自だ。
しかし、守られ続けてきた伝統に、コロナ禍を経て変化が生じ始めている。葬祭業者が言う。
「コロナ罹患のご遺体は、拾骨時に遺族が立ち会わず、火葬場職員に一任していました。そうしたスタイルが一般化したわけではありませんが、罹患者でなくとも拾骨は職員に任せる形で構わないという人も出てきました」
コロナ禍が生んだ「お骨へのこだわりのなさ」は、炉前に集まりただ焼くだけという直葬の増加に連動するものだろう。宗教評論家の島田裕巳は、遺骨を引き取らず火葬場に処理を任せる「0葬」を推奨している。
《0葬に移行することで、私たちは墓の重荷から完全に解放される。墓を造る必要も墓を守っていく必要もなくなるからだ》(『0葬──あっさり死ぬ』集英社文庫より)
しかし前出の川田は「焼くだけ」の葬送が推奨されることに危機感を覚えていると話す。
「遺体をただ燃やせばいいというのであればゴミの焼却炉と一緒。火葬は“人の尊厳をどれだけ大切にするか”が重要です。その精神性を発揮しながら装置を開発したり、維持したり、運転をしたりする。その努力こそが人を弔うことだと思っています」
葬送は文化である──。
火葬場と50年以上向き合い、火葬場をテーマにした論文で日本建築学会賞を受賞したレジェンドの八木澤壯一・東京電機大学名誉教授は、こう提唱して40年前、日本葬送文化学会を立ち上げた。現会長の長江曜子・聖徳大学教授は、コロナ後の変化を見据えた上で、こう提言する。
「葬儀場もお墓も死者と生者が語り合う空間であり、大切な場所です。その場を失わせてはならない。メモリアリゼーション(追悼)は人間しか行わないのですから」
東村山市名誉市民となった志村けんは、いま、市内「梅岩寺」の「志村家の墓」に眠る。墓の前には花と志村が好きだった酒が絶えない。ファンは墓の前で手を合わせ、それぞれ志村への思いを墓石に向かって語りかけるのである。
(文中敬称略)
【プロフィール】
伊藤博敏(いとう・ひろとし)/ジャーナリスト。1955年、福岡県生まれ。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件をはじめとしたノンフィクション分野における圧倒的な取材力に定評がある。『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(小学館)、『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)など著書多数。
※女性セブン2024年7月4日号