「親は大事にしなさい」「きょうだいだからしょうがない」……いまだ日本に根強く残る血縁主義。しかし、それが負担になり、悪影響をもたらしているようなら「絶縁」を考えてもいい。家族と絶縁して、ようやく自分の道を歩み始めることができたという人が、苦悩や葛藤、喜びを明かす。
幼い頃から英才教育を施され、習い事で失敗すると折檻された
「ごめんなさい。許して」
母が爆発するたびに、幼い娘はそう泣いて謝った。
医師、タレントとして活躍するおおたわ史絵さんの母との関係は壮絶だった。
幼い頃から英才教育を施され、習い事で失敗すると折檻された。たばこの火を押しつけられそうになったり、こっそりと下剤を入れたミルクセーキを飲まされたこともある。
「幼少時は母との距離が近すぎました。母は私に入れ込み、私も母に笑ってもらうこと、ほめてもらうこと、喜んでもらうことがすべてと思って生きていた。
大人になる過程でうまく離れられればよかったけど、私の思春期に母が薬物依存に陥ったこともあり、上手に親子関係を成熟させることができませんでした。母は誰とも心を打ち解けられないタイプで、特に晩年は娘の私が彼女の人生のすべてだったと思います」(おおたわさん・以下同)
2004年に父が他界すると母の娘への依存度がさらに増した。そればかりか嘘を言い、不満を漏らし、金を無心するようになる。
母の存在を無視することは、大変な罪悪感と向き合うことだった
振り回されて疲れ果てたおおたわさんは、母との絶縁を決意した。
「自分が壊れそうになり、憤りと憎悪と嫌悪で母を殺めてしまうのではないかと思い詰めました。実際に殴りたい、突き飛ばしたいと思ったことは何百回もあり、限度を超える前に心を鬼にして母から目を背けようと決めました」
以降、母の存在を無視して振る舞うようになった。母が娘の気を引こうと問題行動を起こしたり、救急車を呼んだりしても歯を食いしばってスルーした。それは決して簡単なことではなかった。
「母からの電話を無視して、なるべく会わないようにするのはすごい精神力が必要で、決して平気だったわけではありません。親のことから目を逸らし、子供としての役割を放棄して見て見ぬ振りをすることは、大変な罪悪感と向き合うことでした」
やむにやまれぬ事情から親と絶縁した多くの子は、そうした罪悪感に押しつぶされそうになる。苦しむおおたわさんを支えたのは夫だった。
「家庭の問題は、当事者以外の人間が入ってきて解決できるものではありません。それでも夫は状況を理解したうえで、問題を解決しようという立ち位置ではなく、私のそばにいて常に同じ感情を維持してくれました。
私がベランダで泣いているのに気づかない振りをして何も言わず、毎日変わらず“おはよう”“ご飯食べる?”“おやすみ”と長い絶縁関係で傷ついた私の心を修復しようと接してくれた。それがどれほど心強かったことでしょうか……。夫と一緒でなければ、母との葛藤で私の結婚生活は破綻していたはずです」
最近、実家にあるのは悪い思い出ばかりではないと思えるように
その後、母は自宅で孤独に旅立った。遺体を最初に見つけたのは、母が好きなお寿司を持って久しぶりに実家を訪れたおおたわさんだった。
あれから10年以上経ったが、いまも自分が正しかったかどうかを自問する。
「当時は、“母にひどいことをしたな”という罪悪感がありましたが、長い時間が経過してその気持ちは年々和らいでいます。母が住んでいた実家の扉は不幸の扉のようで開けるのがすごく嫌だったけど、最近ようやく、実家にあるのは悪い思い出ばかりではないと思えるようになりました。
何が正しいのかはいまでもわからず、正解はないのかもしれない。けれど、当時の私は自分が生きていくために、心を鬼にして母から目を背けるしかなかった。それが最善策というよりは、それしか方法が見えませんでした」
【プロフィール】
おおたわ史絵(おおわた・ふみえ)/内科医・タレント。東京都出身。近年は少年院や刑務所受刑者たちの診療に携わる法務省矯正局医師として活動。著書に『プリズン・ドクター』『母を捨てるということ』などがある。
※女性セブン2024年12月12日号