
「エンドロールが終わって最後のワンシーンが映し出された瞬間、客席から“ヒャッ”という小さな悲鳴が上がったんです。私も思わず声が出そうになりましたし、映画館の明かりがついた後の異様なざわめきが忘れられません。“かわいいアニメ”を見に来たつもりだったのに、重い問いを突きつけられたような感じがしました」
7月24日に封切られた『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を鑑賞した女性は、こう口にして映画館を後にした。同映画は公開わずか3日間で興行収入22億4000万円、観客動員数150万人を突破する異例の大ヒットを記録した。
イラストレーター・ナガノ氏が手掛ける『ちいかわ』はSNS発の人気漫画で、朝の情報番組『めざましテレビ』(フジテレビ系)内ではアニメが放送中だ。「なんか小さくてかわいいやつ(通称・ちいかわ)」たちが繰り広げる愛くるしい日常が幅広い層に支持されている一方で、今回の劇場版に関しては、冒頭の女性のように予想外の展開に戸惑う声が相次いでいる。
実は本作で描かれているのは、原作ファンの間でも《サスペンスと不条理が渦巻く異色長編》と称される「セイレーン編」なのだ。
エンタメ評論家でジャーナリストの徳重龍徳氏は、『ちいかわ』が持つ独特の作品構造をこう分析する。
「一見、子供向けの愛くるしいキャラクターアニメに見える『ちいかわ』ですが、その世界観の本質は、まさに私たちが生きる日常そのものなんです。キャラクターたちは日々の暮らしのために『草むしり』や工場での『レモンへのシール貼り』といった地道な労働に励んでいます。住まいが洞窟であったり、日用品を買う際は新品か中古品かで悩んだりと、リアルな生活水準の格差も描かれています。純粋なかわいさの裏に、生々しい社会の縮図が組み込まれているのです。そうした背景もあり、実は『ちいかわ』は、大人からも絶大な支持を集めているといわれています」(徳重氏・以下同)
さらに徳重氏は作中に仕掛けられたもう1つの巧みな“構造”を指摘する。
「作中において、メインキャラクターたちがお互いの名前を呼び合うシーンはほぼありません。プロフィール上は名前がついていても、徹底して匿名性が保たれているんです。性別や詳細な設定をあえて固定しすぎないことで、見る人は無意識のうちに自分自身や身近な人間関係をキャラクターに投影してしまう。だからこそ、彼らが直面する過酷な状況やシビアな選択が、人ごととは思えない切実さをもって胸に迫ってくるのです」
過剰な説明を削ぎ落とし、観客が自ら考えをめぐらせる“余白を残すスタイル”。それこそが、同作を一過性のヒットにとどめない求心力となっているという。
「私たちは日常を生きるなかで、白黒つけられない不条理や割り切れない思いを抱えて過ごしています。『ちいかわ』はそうした“生きていくことの難しさ”を、かわいらしいキャラクターたちの姿にのせて容赦なく突きつけてくる。わかりやすい大団円やハッピーエンドを用意せず、世界の二面性を描き切っているからこそ、深い共感を呼ぶのではないでしょうか」
この夏、“かわいくない”魅力に触れてみてはどうか。