
歌舞伎の世界を描き、大ヒットの映画『国宝』。主人公の喜久雄は舞う姿が歌舞伎役者の目に留まって“部屋子”となり、稀代の女形として芸を究めていく――。部屋子とは、師匠となる歌舞伎俳優の下で子役時代から行儀作法や芸を学ぶ立場のこと。その才で、一般家庭から入門するケースもある。若手のホープとして注目を集める中村莟玉もまた、部屋子から花開いた役者のひとり。
出版社に勤める両親の元で育った莟玉と歌舞伎の出会いは、2才。母親の趣味だった歌舞伎の舞台中継に夢中になっている息子を見て、親子で観劇に出かけたのが始まりだった。
「母は大学時代から歌舞伎が趣味でしたが、公演は昼の部でも4時間近くある。幼い子どもを連れて行くのは難しいだろうと控えていたものの、僕があまりに一生懸命テレビを観ているから“一緒に行けたら息子と楽しめるのにな”と思っていたそうです。試しに電話で問い合わせたら、『未就学児でもお母さんの膝の上に乗せられるなら、4才までは無料で入れますよ』と。これ、意外と知られていないんですが、歌舞伎座は幼い子どもでもOKなんです」(以下、莟玉)
物心がついたころには『ウルトラマン』と同じように歌舞伎に親しんでいたという。とりわけハマったのが、十一世市川團十郎の『切られ与三郎』の白黒映像だったというから渋い。独特な抑揚や楽器の生演奏、視覚的な華やかさなど、「海外の皆さんが楽しむ感覚と似て、言葉はわからなくても、とても面白かった」と歌舞伎の魅力を語る。
新橋演舞場で歌舞伎の真似をしていたら…
運命の歯車が動き出したのは2003年、小学1年生の5月。新橋演舞場で『東をどり』を鑑賞した際、幕間のロビーで、配られた手ぬぐいをほっかむりして大好きな『切られ与三郎』の真似をしていたところ、日本舞踊家の花柳福邑から声がかかった。
「『あら、与三郎じゃない。お芝居が好きなの?』と訊かれたので、『はいっ!』と返事をして。そうしたら『よかったらウチへお稽古にいらっしゃいよ』と誘ってくださったんです。幼い頃からウルトラマン、電車の運転士、歌舞伎役者の3つの夢があって、歌舞伎役者はいちばん無理だと周囲に言われてきました。母も部屋子制度などは知らず、『舞台に出ている人はみんな、歌舞伎の家に生まれた人たちなのよ』って。
そう言われてもわかったような、わからないような感じでしたが、“あの舞台と近しいことができるなら、それでもいいや”と、お稽古に行かせてもらうようになったんです」
習い事として、土日に花柳福邑から舞踊を仕込まれた。

人間国宝となる師との出会い
「新橋の芸者さんをリタイアして踊りの先生をされていた福邑先生は当時83才くらい。『昔の役者は新橋へ来ていて、みんな知り合いだったけれど、もういなくなっちゃった。でもとにかく、お稽古をしていなさい』と面倒を見てくださいました。するとある日、松竹のバッジをつけた方がお稽古を見にいらして、『ボク、歌舞伎役者になりたいの?』って。それが翌年の1月で、3月に母と歌舞伎座へ呼ばれて出かけたら、梅玉を紹介されました。松竹のバッジの方は、歌舞伎座の当時の支配人さんだったんです」
後に人間国宝に認定される、師・四代目中村梅玉との出会いだった。
「物腰がやわらかく、朗らかでしたが、その中にある厳しさは子ども心にもなんとなくわかって、“初めまして”の瞬間をよく覚えていますね。歌舞伎の世界は何時に入っても“おはようございます”です。それだけ覚えて、ちゃんとご挨拶はしてくださいね、と教えられました」
その日以来、歌舞伎座で梅玉が公演する週末には楽屋へ通うようになった。後年、梅玉が「7才の時に訪ねてきて、1年もすれば飽きてしまうと思っていた」と当時を振り返ったが、莟玉の熱量は1年過ぎてもまったく衰えない。それなら試しに舞台へ上げてみようと、2005年1月、国立劇場『御ひいき勧進帳』富樫の小姓役で本名・森正琢磨として初舞台を踏むことに。本人は「ただ刀を持って座っているだけでした」と語るが、板の上で与えられた役をしっかり勤めた。
「1回目の舞台を終えると、他のお稽古もやったほうがいいということで、お囃子の鼓や、日本舞踊のお稽古も福邑先生に加えて藤間のご宗家にも通わせていただくようになりました。お稽古も楽しく続けていたので、1年後にデビューさせましょう、となった。実は“試験期間”が2年あったんですね。
人ひとり預かることはとても大変なことですし、ひとたび部屋子としてデビューさせたら、そうそう後へは退けない。僕の覚悟はもちろんのこと、受け入れる側としても腹をくくるまでの時間が必要だったんだと思います」
かくして2006年4月に、初代「中村梅丸」を名乗った。9才だった。部屋子として飛び込んだ、憧れの世界はその目にどう映ったのか――。

(全2回の1回目)<後編へ続く>
取材・文/渡部美也