伊藤みどりさん、紆余曲折を経てたどり着いたのはやはり「フィギュアスケート」だった 大会に出場しスケート教室も開催 子供からは「このおばさん誰?なんて目で見られることも(笑)」
「体力の限界です」──酷使した体は、22才で悲鳴を上げた。現役を引退した伊藤みどりさんを待ち受けていたのは、セカンドキャリアを模索する日々。「あの伊藤みどりが会社員なんて」「みどりにコーチは向いていない」。さまざまな声に悩み、もがき、苦しんだ末、彼女はリンクに戻ってきた。54才になった彼女がいまも滑り続けている理由。【全3回の第1回】
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国際アダルト競技会に7回目の出場、連覇達成
「2分よ! 2分。たったの2分だから」──ドイツ最南端のアルプスの街・オーベルストドルフのスケートリンク。ほかのスケーターと比べると決して体格に恵まれているとは言えない小柄な女性は、自分を奮い立たせるようにそうつぶやいた。リンクサイドで見守る仲間たちとハイタッチを交わし、弾けるような笑顔でリンクの中央に向かうのは、フィギュアスケーターの伊藤みどりさん(54才)だ。
大きく吸った息を深く吐く。現役時代と変わらぬルーティンを終えると、坂本龍一さん(享年71)のピアノ曲『Aqua』の繊細なメロディーに合わせ、やわらかく、なめらかな滑りを披露する。両手を胸の前で交差するフィニッシュポーズで約2分間の演技を締めくくると、会場は総立ちになった。身長145cmの小さな体で万雷の喝采を受ける姿は、あのときオリンピック会場を震わせた「世界のミドリ・イトウ」そのものだった。
伊藤さんが立った舞台は、今年5月に開催された「国際アダルト競技会」。ISU(国際スケート連盟)が公認する大会で、28才以上の引退した元選手や趣味でスケートを楽しむ一般人が参加する。およそ30か国から総勢500名以上のアダルトスケーターが集う一大イベントだ。
「いつも切羽詰まってから、出場を決めるんです」
今年が7回目の出場となった伊藤さんは、そう苦笑いする。
「大会が終わるたびに“やり切った! もういい!”となるけど、毎年3月のエントリー期限が近づくと意欲がわいてくる。練習を始めると、周りのみんなに『またみどりさんの“すべりたい病”が始まった!』って言われますね」(伊藤さん・以下同)
今回出場したのは、1回転ジャンプのみが許される「アーティスティック部門」。多くの選手は本番直前の公式練習で、まず氷上を滑走して調子を整えるが、伊藤さんはウォームアップもそこそこに、いきなりシングルアクセル(1回転半)を跳ぶ。今大会でも、シングルアクセルを幅たっぷりに跳んでみせ、会場に大きな歓声を巻き起こした。経験がなせる、しなやかで情熱的なスケーティングは観衆を魅了し、昨年に続く連覇を達成した。
「坂本龍一さんが命を削りながら演奏された素晴らしい音楽に合わせて滑ることで、自分の生き様を表現したかった。緊張して出来は80点でしたが、すべて出し切ろうと思って滑りました」
毎年アダルト競技会が開催されるドイツは、いまから42年前、12才の伊藤さんが世界ジュニア選手権に出場した際に訪れた思い出の地だ。
「いまはあのときとは比べものにならないくらい大変です。ちょっと滑るだけで疲れちゃうから、こまめに休憩をとっています。やりすぎると痛みが出るので、無理も厳禁。それでも今回は、去年できなかったスピンを演技終盤に成功させることができました。
キツいけど試合は楽しいんです。試合ならではの緊張感や滑っているときに頬で感じる空気感は、何十年経っても変わらない。それを味わいたくて、いまでも頑張っているのかもしれません」
伊藤さんは現在、福岡県北九州市で暮らしている。
「いまは主人とふたり暮らし。休日にはコロナ禍に始めてすっかりハマったガーデニングをしたり、散歩をしたり、温泉旅行に出かけたりすることもあります。家事は分担していますが、料理は主に夫が担当して、私は手伝うことが多いかな」
2006年に前夫と離婚し、2009年に一般企業に勤める現在の夫と再婚した。ふたりが出会ったのは東京だった。
「出会った頃からずっと私の愚痴を聞いてくれていた彼が地元の北九州に転勤することになったんです。“じゃあ私もついていく”といって結婚が決まりました。地方に住みながら、東京のスケートリンクで練習をしたり、ドイツの大会に出たりすることができるのも家庭が幸せだからです」
2002年にプロスケーターを引退した伊藤さんはその後、セカンドキャリアを模索する。エステティシャンやウエディングプランナー、心理カウンセラーの勉強もした。しかし紆余曲折を経てたどりついたのは、やはりスケートだった。
「15年くらい前に、知人のもとで幼稚園児や小学生を対象にした小さなスケート教室を始めたんです。選手に教えるのは柄じゃないけど、スケートの楽しさを教えるのは楽しいなということに気づきました。
いまは毎年、冬季限定で北九州のリンクでスケート教室を開催していて、氷上で一緒に鬼ごっこやボール遊びをしたりしています。教室の子供からは『このおばさん誰?』なんて目で見られることもありますよ(笑い)」
充実感を漂わせる彼女がフィギュアスケートを始めたのは4才のときだ。滑る楽しさを知った彼女は地元名古屋のリンクに毎日のように通い、そこから世界に大きく羽ばたいていく。
「大根足」で高く踏み込んだアクセル
現役時代、何よりも世界を魅了したのは、伊藤さんの溌剌としたキャラクターだ。手足が長い欧米の選手が優雅に競い合うなか、伊藤さんは自身が「大根足」と呼ぶ、小柄だがバネ感のある脚で氷に踏み込む。1m近く跳び上がると、誰も真似できない高難度ジャンプを次々と決め、演技中は感情のままにガッツポーズや笑顔を繰り広げる。情熱的な滑りに、世界中の観客が惜しみない拍手を送った。
フィギュア界に旋風を巻き起こした天才少女は、裕福な家庭で育ったわけではなかった。フィギュアスケートの金銭的負担はスポーツのなかでもトップクラスといわれ、レッスン代に加えてリンク代や靴、衣装代などさまざまな費用がかさむ。
娘を応援するため、伊藤さんの母は朝から晩まで働いた。衣装を手づくりするなど節約に励んだが、どうしても家計が回らず、つい「スケートを嫌いになってほしい」と願ってしまうこともあったという。
そんな伊藤一家を支えたのが、のちに伊藤さんと同じくトリプルアクセルジャンパーとして活躍した浅田真央さん(33才)や現役引退を表明したばかりの宇野昌磨さん(26才)を育て上げた名伯楽、山田満知子コーチ(81才)だ。伊藤さんが通うリンクでスケートを指導していた山田コーチはジャンプを怖がらない伊藤さんの将来性を見抜き指導を重ねた。
さらに伊藤家の苦境を知った山田コーチは10才になった伊藤さんを自らの家に住まわせ、「第二の母」として家族の一員のように育てた。すると、伊藤さんはメキメキと頭角を現し、1985年には中学3年生という若さで全日本選手権を初制覇。
世界が驚きの声をあげたのが1988年のカルガリー五輪だ。女子は3回転2種類で優勝できる時代に、5種類の3回転ジャンプを7回跳ぶという前人未到のプログラムを完璧にこなしてみせた。
その翌年の世界選手権で女子として初めてISU公認の大会でトリプルアクセル(3回転半)を決めると、1992年のアルベールビル五輪でも、フリー演技の最終盤でトリプルアクセルを見事に成功させ、日本フィギュアスケート史上初の銀メダルを獲得した。そのとき、記者の前で伊藤さんが口にした、「金メダルじゃなくてごめんなさい」という謝罪は、彼女にのしかかった重圧をこれでもかと感じさせたが、その後、伊藤さんのトリプルアクセルは、多くのフィギュアスケーターに影響を与えた。
《みどりさんのトリプルアクセルのスピード感やジャンプの高さは、誰にも真似できないですよ。すごい》
かつて浅田真央さんは伊藤さんとの雑誌の対談でこう絶賛した(『Number』2019年1月号)。
2006年のトリノ五輪で金メダルを獲得した荒川静香さん(42才)も「伊藤みどりが切り拓いた道があるから私がいる」と公言する。女子選手だけでなく、男子選手にも「みどりが男子じゃなくてよかった」と言わしめたトリプルアクセル。伊藤さんと同じ愛知県出身で、2010年のバンクーバー五輪に出場した小塚崇彦さん(35才)もすごさを語る。
「小さい頃からよくアイスショーに足を運んでいたぼくは、伊藤みどりさんという大スターに生で会えることに何よりもワクワクしていた記憶があります。トリプルアクセルにはスケーターの個性が出ますが、みどりさんのアクセルは男子でも真似できない独特の雰囲気を持っている。あの力強さを備えた回転は、みどりさんにしかできないんです」
(第2回へ続く)
※女性セブン2024年8月8・15日号