現役時代、トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)で世界を驚愕させたフィギュアスケート界のレジェンド・伊藤みどりさん(54才)は今年5月、ISU(国際スケート連盟)が公認する「国際アダルト競技会」に出場。1回転ジャンプのみが許される「アーティスティック部門」で昨年に続く連覇を達成した。そんな伊藤さんだが、49才で迎えた2019年の大会ではダブルアクセルを跳ぶことを目標に掲げたものの、失敗して失意の底に沈んでいた。そこから再び立ち上がるまでのストーリーとは──。【全3回の第3回】
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80才でダブルアクセルの成功を
心が折れた伊藤さんを支えたのは、伊藤さんと親交が深いスポーツライターの野口美惠さんだった。元毎日新聞記者の野口さんはアルベールビル五輪の伊藤さんに憧れてスケートを始めた。
2006年に記者と解説者という立場で初めて出会った2人は、たちまち意気投合すると、仕事以外でも交流を重ねた。伊藤さんがセカンドキャリアを模索し、氷上を離れていた頃、野口さんは「かつての憧れの存在」にある言葉を投げかける。
「伊藤みどりは氷の上で滑ってないとダメじゃん」
説得し続けること数年。ついに伊藤さんが「私、アダルト競技会に出ようかと思って」と野口さんに電話をかけた。2010年末のことだった。すでに同競技会への出場経験があった野口さんは伊藤さんをフルサポート。ルールの確認やプログラムの構成、宿や飛行機の手配などを行った。
しかし前述の通り、2019年のアダルト競技会でダブルアクセルに失敗し、スケートへの意欲を失った伊藤さんの足はリンクから遠のいた。ほどなくしてコロナ禍となると家に引きこもるようになり、野口さんとも会わない日々が続いた。思わず心配して連絡したくなるところだが、野口さんはあえて伊藤さんを“放置”した。
「もう15年、20年近くみどりさんをそばで見ていますから。滑っているときの表情を見ればわかりますけど、やっぱりスケートが本当に好きで、数年経ったらまたスイッチが入るなと思っていました。だから、無理に誘ったりしなくても何年か経てば絶対スケートに帰ってくる、そう思ってあえて放っておきました」(野口さん)
その言葉通り、伊藤さんは2023年1月、実に3年ぶりにリンクに帰ってきた。
「コロナ禍で運動していなかったことが功を奏しました。体は鈍っていたけど、節々の痛みがない。滑るのが楽しい。シングルだけど、アクセルだって跳べる。次第に競技会に出たいという気持ちが湧いてきました」(伊藤さん)
スケート少女に戻った伊藤さんは2023年のアダルト競技会にエントリーすると、本番ではスピンやステップで、滑る喜びを体全体で表現した。拍手喝采を浴び、復帰戦を優勝で飾った。その姿に目を細めた野口さんは、「みどりさんは妹のような存在」と言う。
「私の方が7才年下なのに放っておけなくて、世話を焼かないとまずいぞという感じ。もともとはテレビで見て憧れていた人だから、不思議な感じもします。
彼女は“スケートの女神”に愛された100年に1度の逸材ですが、いまも少女のような心を忘れずに現在の自分を受け入れて、精一杯の姿を恥じることなくさらけ出しています。衰えていく自分を人に見せたくないという元選手が多いけど、みどりさんはアダルト競技会を経て、それを乗り越えたんです。演技を楽しもうという心意気が演技に表れるから、見る人の心が揺さぶられるのでしょう」(野口さん)
伊藤さんも、「いまは純粋にスケートが楽しめています」と語る。
「私は山田(満知子)コーチに反抗して、試合前に逃亡したり家出したりと全然いいスケーターではなかったけど、いまはスケートに真摯に向き合えています。山田コーチとの関係はいまでも続いていて、毎年『今年もアダルト競技会に出ます』って報告するんです。コーチは『そんな体形になってみっともない』って言うんですけど、最終的には『みどりはスケートが好きだからね』って。温かく見守ってくれています」(伊藤さん・以下同)
伊藤さんを突き動かすのは、「パイオニア(先駆者)になりたい」という気持ちだ。
「スケートは特別な人がやるものではなく、趣味のひとつとして年齢問わず誰にでもできるスポーツだとアダルト競技会に出て実感しました。もっと多くの人に滑る喜びや楽しさを知ってほしい。スケートは見るだけでなく、生涯スポーツとして何才まででも実際に滑り続けられるようになりつつあります。私はいま、その先駆けになりたいんです」
その言葉通り、伊藤さんはこれからもずっと滑り続けるという。
「今年のアダルト競技会の公式練習で私がシングルアクセルを決めたシーンを大会関係者が見て、どうも来年から私が出場していた部門でこれまで禁止されていたアクセルが解禁されるようなんです。私のためにルール改正されるとなれば、来年も出ないわけにはいかないですよね。今後の夢は……大きく、『80才でダブルアクセル成功』にしようかな」
決して夢物語ではない。昨年、伊藤さんは初めてハーネス(上半身に安全帯を装着し、体を真上に釣り上げてジャンプの練習を行う補助器具)を装着して、ダブルアクセルに挑戦した。
「足腰の負担が少なくてよかったです。自分の跳び方の理論とハーネスでの練習を組み合わせたら、またダブルアクセルが跳べるようになる手応えは充分ありました。あとは、もうちょっとやせるだけかな」
そう話す伊藤さんの真っ直ぐな笑顔は、彼女が再びダブルアクセルを決める日がそう遠くないかもしれないと思わせてくれるものだった。
(了。第1回から読む)
※女性セブン2024年8月8・15日号