女性は男性よりも6年ほど平均寿命が長いため、女性の方が伴侶との永遠の別れを経験する確率が高い。思いもよらない病や事故で天寿を迎えてしまったら、別れを受け入れることすら時間を要する。歌手の加藤登紀子(80才)が、乗り越える手助けとなったのは夫が残した「みそ」だった。
「彼が残した未来への夢を、受け継ぎ、やり遂げたい」
加藤の夫・藤本敏夫さん(享年58)が肺炎のため亡くなったのは、2002年7月31日だった
「息を引き取る1年前に肝臓がんの手術をしてから、その日を迎える覚悟を決めていました。彼は今後の計画を立てて、残された時間を有意義に過ごしていました」(加藤・以下同)
前日に容体が急変し、親族が集まって藤本さんを囲んだ。温かい雰囲気に包まれた藤本さんは「もういいだろう」と満足そうにつぶやいて、酸素マスクを外してそのまま旅立った。悲しむ間もなく、葬儀の準備をするため自宅に帰る途中で、マネジャーからマスコミ向けのコメントを求められた加藤は手帳にこう記した。
《2人の人生はいまからまた別な形で始まると思っています。彼が残した未来への夢を、受け継ぎ、やり遂げたいと思います》
このコメントは彼女自身を奮い立たせたという。
「とっさに出た言葉に私自身がすごく助けられました。そうだ、新しい関係で生き始めるスタートなんだって、大きな支えになりました」
通夜と葬儀は、活動家であり、自然農法家でもあった藤本さんが理想の農業を行うための「鴨川自然王国」を設立した千葉県鴨川市で行った。
「横たわる姿を見た近所の人が“藤本さん、笑っているね”と言って、和気あいあいとした雰囲気でした。火葬場に向かう途中、見晴らしのいい丘の上でみんな一緒に最後の記念写真を撮って、出棺時は娘が歌を歌っておくりだした。すべてが夢のような時間でした」
理想的な別れができたが、ひとりになると喪失感に苛まれた。何よりつらかったのは毎日、夫婦一緒に食べていた朝食の時間だ。
「伴侶を亡くすということは、荷物はあるけど、その持ち主だけがいなくなるということ。私は東京と鴨川の二拠点生活だったけれど、仕事のこともあってほとんど東京で過ごしていて、鴨川の事業は彼に任せていたんです。だから気づいたら彼が大切に運営していた自然王国は放ったらかしになっていた。彼との別れの後、その空白をなんとか埋めようと努力しました」
二拠点生活の鴨川の住居から出てきたのは大量のみそ
主がいなくなった鴨川自然王国を引き継ぎ、事業経営を始めた。だが鴨川の住居を片づけている最中、猛烈な寂寥感に襲われた。
「もっと早く鴨川に来て一緒に過ごす時間を持てばよかったのに、何で私は生きているうちにそれをせず、いなくなってから一生懸命掃除しているんだろうと床に突っ伏して泣きました」
喪失感と後悔に苦しみ続ける中、救いは意外なところからやって来た。鴨川の作業小屋の床下から、藤本さんが仕込んでいた大量のみそが見つかったのだ。
「食べてみたらびっくりするほどおいしくて、すごくうれしくなって彼がお世話になった人たちに配りました。東京に持ち帰っておみそ汁を作ったらそれもおいしくて、つらかった朝ご飯がとても楽しみになった。彼が最後に張り切って育てた大豆で造ったみそが私と鴨川をつないでくれた。大自然のなかに彼が私たちの居場所を残してくれたので、それから足繁く鴨川に通うようになりました」
物理的にいないことは精神的にいないことではない
自分の言葉とみそを支えに悲しみを乗り越えた彼女にとって最後の壁は「歌」だった。夫の死からずっと、彼と過ごした日々を思い出してしまうオリジナル曲を歌うことができなかった。
だが、自身が訳詞したエディット・ピアフの『愛の讃歌』が加藤を変えた。そこにはこんな歌詞がある。
《もしもあなたが死んで私を捨てるときも 私はかまわない あなたと行くから 広い空のなかを あなたと2人だけで 終わりのない愛を 生き続けるために》
加藤が振り返る。
「ピアフが恋人を亡くした直後に歌った楽曲で、歌うのにすごく勇気が必要でした。でも思い切って歌ってみたら、ピアフの気持ちが劇的にわかりました。
つまり、彼は死んでなくて、私の中にいるからふたりはいつでも会える。物理的にいないことは、精神的にいないことではない。人は死んでも精神的には永遠に生き続けられることを発見して、とても勇気づけられました」
夫は生きている―この思いが消えることはない。
◆歌手・女優・加藤登紀子
1943年中国・ハルビン出身。1965年、東京大学在学中に歌手デビューし、1972年に活動家の藤本敏夫さんと獄中結婚。藤本さんは2002年、肺炎で死去。『加藤登紀子ほろ酔いコンサート2024』が東京、名古屋、大阪、福岡など全国9都市で10公演開催される。https://www.tokiko.com/
※女性セブン2024年9月26日・10月3日号