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「いつでも帰っておいで」火野正平さん、奇特な”2人の妻”との唯一無二の男女の物語 本妻は籍を抜かずに50年も待ち続けた

11月14日に亡くなった昭和のモテ男・火野正平さん
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抜群の愛嬌で多くの女性たちに慕われた、昭和のモテ男・火野正平さん(享年75)が逝った。最高11股というワイドショーの常連を支えたのは、奇特な2人の妻の存在。夫婦の形も、愛の形も人それぞれだが、そこには唯一無二の男女の物語があった──。

祭壇の写真には、熱帯植物に囲まれた額の中で照れ笑いを浮かべる火野さん

「撮影が終わった後にスタジオのソファに寝そべって、誰彼構わず『遊びに行こうよ』と声をかけていたのを思い出します。本人は『おれは男であるより、男の子でいたい』なんて冗談ぽく言っていましたが、茶目っ気たっぷりで、いつまでも少年のような人でした。寂しがり屋で男から見ても放っておけない人だったから、女性にモテたのも当然ですよ」(役者仲間)

11月14日、俳優の火野正平さんが亡くなった。享年75。所属事務所によると、火野さんは今年の春頃から持病の腰痛の治療に励んでいたが、夏頃に腰部を骨折したのを機に体調を崩したという。

「仕事復帰を目指したものの願いは叶わず、自宅で家族に見守られながら最期を迎えたそうです。遺族が撮影した祭壇の写真には、熱帯植物に囲まれた額の中で照れ笑いを浮かべる火野さんの優しい顔が写っていました」(芸能リポーター)

幼なじみの女性と20才のときに結婚

児童劇団出身で、小学生の頃から子役として活動していた火野さんが役者として注目を浴びたきっかけは、17才のときに出演した子供向けの時代劇。事務所に段ボール箱一杯のファンレターが届くほどの人気者になったが、火野さんは当時から後に妻となるAさんと同棲生活を送っていた。

激しいラブシーンが評判を呼んだ映画『ルージュ』(1984年公開)の制作発表に登場した火野正平さんと、共通の松居一代(左)と新藤恵美(右)
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「15才から交際をはじめた年上の幼なじみで、20才のときに結婚、2人の子宝に恵まれました。仕事がないときは関西出身の奥さんの実家の家業を手伝い、肉体労働をして糊口をしのいだそうです。妻子がいることは長らく伏せていましたが、1973年にNHK大河ドラマ『国盗り物語』で羽柴秀吉役に抜擢された後に公表し『これで人気が落ちたとしてもぼくは少しも気にしません。これからも、いままでのような生き方を続けていく』と宣言。よき夫、よきパパとして振る舞うようになったのです」(芸能関係者)

ところが、Aさんとの結婚生活は当初から波乱含みだった。火野さんは結婚前から浮気を繰り返し、別の女性と同棲したあげく半年以上、Aさんと暮らすマンションに帰らないこともあったという。

火野正平さんと交際をしていた女優の望月真理子
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「結婚後も数々の女優や歌手と浮名を流し、希代のプレーボーイと呼ばれました。歴代の“愛人”の中でも、大河ドラマで共演した小鹿みきさんとのつきあいは長く、6年近く同棲していたそうです。その間に望月真理子さんとも交際し、しかも彼女との間に女児をもうけた。仁支川峰子さんやセクシー女優との恋仲をマスコミに報じられたこともありました」(ベテラン芸能記者)

多いときで“11股”とも報じられたが、火野さんは「人を不幸にするかもしらんが、おれは自分の好きなように生きている」と語り、つきあった女性たちから恨み節や憎まれ口を叩かれることはなかった。前出の役者仲間が言う。

火野正平さんと交際をしていた歌手で女優の西川峰子
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「女性問題に関しては噂の通りで、本人も隠そうとしていませんでした。撮影現場でも共演者を口説くのは日常茶飯事。むしろ、声をかけない方が失礼だろうというイタリア人のような感覚だったんです。一方で、仕事への向き合い方はストイック。当日までに台本を完璧に暗記して、状況に合ったアドリブを放つからほかの役者は気が抜けないんです。もっとも、共演者や後輩への目線は優しく、怒ったりするところを見たことがありませんでした」

「立ち上がらなくて結構です」

かつて芸能界きってのプレーボーイとして“平成の火野正平”と呼ばれたDA PUMPのISSA(45才)は、火野さんの訃報に接して自身のインスタグラムにこう綴った。

《『お前がISSAか!』番組でお会いした時に笑顔で優しく接してもらえた事は一生の宝物です》

家庭を顧みず、自由奔放に生きる夫に振り回されたのは妻とその家族だ。結婚の翌年に浮気が発覚して以後、Aさんは家に寄り付かなくなった火野さんを2人の子供を育てながら待ち続けた。

「火野さんは自分には帰る家が5軒あると豪語し、Aさんのところに戻ろうとしませんでした。愛人が2人、3人と増えていってもAさんは、火野さんの分の夕飯を作って平静を装ったのです。マスコミには『最後には私のところに帰ってくる』と気丈に語り、火野さんに『いつでも帰っておいで』と呼び掛けていました。Aさんにとっては赦すことも愛することだったのでしょう」(前出・芸能リポーター)

火野正平さんとの不倫が報じられた女優の新藤恵美(左)
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それでも火野さんは自分の生き方を変えようとはしなかった。不倫報道は日を追うごとに過熱し、ワイドショーの常連に。火野さんは“女の敵”と名指しされ、Aさんは女性団体に「一緒に立ち上がりましょう」とすすめられたこともあったが、「立ち上がらなくて結構です。お座りください」と冷静に返したという。その後、火野さんは“8人目”の恋人と報じられたBさんと一緒に暮らすようになり、彼女との間にも2児をもうけた。

「火野さんはBさんを母ちゃん、Aさんを“前の母ちゃん”と呼び、2人の違いは紙切れ一枚だけと周囲に語っていました。Aさんから電話で『帰っておいで』と言われたこともあるそうですが、『怖くて会えない』と冗談まじりに話していたそうです」(前出・芸能リポーター)

「波風を立てていただきたくないので、何もお答えできません」

結婚から50年以上が経っても籍を抜かず、火野さんを待ち続けたAさんは突然の訃報に何を思うのか。11月下旬、本誌『女性セブン』は関西で暮らすAさんを訪ねたが、「もう芸能界の人たちとは関係ありません。波風を立てていただきたくないので、何もお答えできません」と語るのみ。細身でショートカットの上品な女性で、自宅の表札には火野さんの本名の名字が掲げられていた。

「火野さんはBさんから、一度だけ籍のことを言われたことがあるそうです。自分が死んだ後に揉め事が起きることを心配しつつも、『前の母ちゃんにも立場がある』と言って、離婚はあきらめている様子だったとか。晩年は『恋はいいもんだよ』と言いながら、Bさんや娘さんたちと仲よく暮らし、家族で行ったハワイに散骨してほしいと“遺言”のような言葉を残していました」(前出・芸能リポーター)

多くの女性たちを魅了してきた火野正平さん
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亡くなるひと月ほど前、火野さんは、Bさんら家族4人で近所の居酒屋を訪れていたという。杖をついて歩き、「(腰が)痛くてさ。気を使わせちゃって、ごめんね」と言いながら、いわしの刺し身をあてにノンアルコールビールのグラスを傾けていたそうだ。

Bさんの長女によれば、家族は今際の際に火野さんの手を握り、「またね」と言って見送ったという。“火宅の人”と呼ばれ、自分の生き方を貫いた火野さんは、愛する人たちに見守られながら穏やかな顔で旅立った。

※女性セブン2024年12月12日号