「親は大事にしなさい」「きょうだいだからしょうがない」……いまだ日本に根強く残る血縁主義。しかし、それが負担になり、悪影響をもたらしているようなら「絶縁」を考えてもいい。家族と絶縁して、ようやく自分の道を歩み始めることができたという人が、苦悩や葛藤、喜びを明かす。
母なしでは生きていけず、母の愛を苦しいとも感じでいた
女性アナウンサーが花形とされていた平成の時代。華やかなテレビ出演の裏側で、小島慶子さんは食べては吐くという過食嘔吐を繰り返していた。
心の不安定さの遠因は幼少期にあった。1972年、父の仕事の都合によりオーストラリアで生まれた小島さんは、幼い頃から家族である父、母、姉との関係に心を悩ませていた。
「母は当時としては高齢出産で、輸血が必要なほどの難産で私を産みました。それゆえか母は私への思い入れがかなり強く、自分が子供の頃にできなかったことをすべてやってあげたいと過干渉になっていた。
私も母なしでは生きていけず、母を幸せにできるのは自分だけだと思う半面、母の愛を重い、苦しいとも感じていました」(小島さん・以下同)
15才のときに9才年上の姉が結婚すると、母の関心はますます小島さんに集中し、心労はさらに増した。
「実家の家族はなにかと容姿についてよしあしを言う習慣があり、私は太ることが怖くなって食べては吐くようになりました。摂食障害は大学を卒業してTBSに入社してからも続き、20代の頃は社内の人気のないトイレで毎日のように食べ吐きをしていました」
28才で番組制作会社のディレクターと結婚し、30才で第1子を出産。多忙な育児で摂食障害は治まったが精神的に不安定になり、第2子妊娠を機にカウンセリングを受けることに。すると、蓄積していた怒りが堰を切ったようにあふれ、「自分がしんどいのは実家との関係のせいではないか」との思いが湧きあがった。第2子出産後、33才で不安障害と診断された。
「実家との関係の悩みに加え、2人目を出産して仕事を続けられるのかという不安や産後のホルモン変化、夫婦の問題などが重なって、精神が限界に達しました」
精神が限界に達し…医師が語りかけた言葉
そのとき、憔悴する小島さんに医師がこう語りかけた。
「あなたは与えられた命を幸せに生きることがいちばんの親孝行です。親に会って、親を喜ばせることが親孝行ではありません。
たとえ実家の家族と会わなくても、あなたが穏やかに幸せに生きていけるなら、それが命をくれた人に報いるということでしょう」
「苦しいなら一生会わなくていいんです。まずは自分を守ってください」
この言葉で小島さんは当面、実家とはかかわりを断つことを決意したと語る。
「“自分は幸せになることを大事にしていいんだ”“親不孝な悪い娘と思わなくていいんだ”と気づかされ、家族と会わない方が健やかに過ごせるだろうと距離を置きました。
会わない期間は苦しかったけど新たなストレスはなく、家族を他者としてとらえ直しました。自分のなかで固定化した人物像を離れ、“何で母はあんなことを言うのだろう”“なぜ私はその言葉に傷ついたのだろう”と、できるだけ関係を客観的に把握しようと心がけました。そうした作業を通じ、家族も私と同じように不完全で日々変化する人間なのだと理解して、“そろそろ会えるかも”と思うことができた。それまで7年かかりました」
7年という時間は決して無駄ではなかった
7年間の空白ののち、家族と再会。最初は互いにギクシャクしたが、時間をかけて関係を修復していった。
するとあるとき、母が娘にこう声をかけた。
「私はそんなつもりはなかったけど、慶子は苦しかったのよね。ごめんね」
その言葉を聞いて「心が動いた」と小島さんは語る。
「謝ってもらいたいわけではなかったけど、人の話を聞かず、物事を見たいようにしか見ない母が学び、気づいて変化したことに感動しました。
家族も傷ついて苦しんだはずですが、両親は親子関係の本をたくさん読んで、時間とエネルギーを割いて私との問題に向き合ってくれたようです。
尊いですよね。7年という時間は決して無駄ではありませんでした」
家族の呪縛に苦しむ人に小島さんはこう言葉を送る。
「つらい目にあっても家族のことは憎み切れないから、この問題は難しい。
でも決して自分を責めず、頼れる人がいれば頼ってください。まずはあなた自身が幸せになることを大切にしてほしい」
【プロフィール】
小島慶子(こじま・けいこ)/エッセイスト・メディアパーソナリティ 。1972年生まれ。1995年、TBSに入社し、アナウンサーとしてテレビとラジオで活躍。2010年に独立してからはメディア出演のほか、執筆・講演活動を行う。
※女性セブン2024年12月12日号