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《栄光と黄昏の37年間》中居正広が歩んできた“逆境人生”「4畳の部屋に一家5人」極貧幼少期から「ジャニーズの落ちこぼれ」、そして「ジャニーズの申し子」へ

おれたちは落ちこぼれ

13才で自ら旧ジャニーズ事務所に履歴書を送り、SMAPが結成された16才のとき、本気で頑張ってみようと決意した。

「中居さんが活動を始めたのは、ちょうど光GENJIの全盛期。上下関係にうるさい先輩から疎まれ、木村拓哉さんと中居さんは、『調子に乗ってんじゃねーよ』などと、よく殴られていた。

デビュー前、あどけない笑顔を見せる元SMAPの6人(1989年)
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木村さんは小突かれると、無言でジッとにらみ返す。一方の中居さんは怒られても『ご飯に連れて行ってください』と自分から距離を詰め、かわいがられるような一面も持っていました。中居さんは、諸星和己さんが記者やファンを巻くために、よく影武者役をやらされていました」(旧ジャニーズ事務所の元所属タレント)

やんちゃで生意気な性格は、周りをハラハラさせることもあったという。

「『おれたちはジャニーズの落ちこぼれだから』と口癖のように言っていました。ジャニー喜多川さんは中居さんの指導に熱心で、リハーサル室などで『ここはこうしなきゃ』とか『ふてくされたらダメだ』と態度を注意していましたが、それに対し、中居さんは『やってらんねーよ』とキレる。若かったんでしょうね」(前出・旧ジャニーズ事務所の元所属タレント)

勉強を重ね、話術も向上し司会業もこなせるように

1991年にSMAPとしてデビューし、以降はバラエティーやドラマでも活躍。NHK紅白歌合戦の司会を計6回務めるなど、国民的アイドルの座を不動のものにした。アイドルとしてだけでなく、MCやリポーターとしても才能を開花させた中居。その裏側には地道な努力があった。

NHK紅白歌合戦の司会を計6回務める
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「SMAPの育ての親といわれる女性マネジャーから『とにかく本を読むように』とすすめられ、中居さんは必死で勉強を重ねたそうです。その結果、話術も格段に向上し、司会業もこなせるようになった。新聞にも熱心に目を通すようになり、『情報番組の司会をするなら当然だ』と周囲にも語っていたそうです。

かつては中居さんを厳しく指導したジャニーさんも、晩年は若手に対し『中居を見習え』と語るなど、“ジャニーズの申し子”として事務所の模範となっていた」(前出・テレビ局関係者)

落ちこぼれからスタートしたアイドル人生。何本ものレギュラー番組を抱え、いつしか大勢の後輩の目標となったが、栄光の芸能生活は一転して黄昏を迎える。

「中居さんの引退を受け、SNSでは島田紳助さんの名前が話題となりました。紳助さんは自身の引退会見で芸能生活を振り返り、武田鉄矢さんの言葉を引用する形で《山はてっぺんまで登ったら、ゆっくりうまく下りないといけない。それで初めて登山成功だ。下山できなかったらそれは遭難だ》と成功した人間の引き際の難しさを語っていました。これがまさに中居さんにも当てはまるというのです」(別の芸能関係者)

中居の積み重ねた37年間の幕切れは、なんとも後味の悪いものになった。

※女性セブン2025年2月13日号

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