
有名芸能人の舞台やドラマ、アーティストの衣装を数多く手がけるデザイナー・紫藤尚世(しとう・ひさよ)さん(77才)は、着物の魅力を世界に発信する活動を続けている。和文化の基礎を残しつつ、西洋のアクセントを取り入れた紫藤さんの「KIMONO」の存在感を高めたのは、中森明菜が歌った伝説の一曲だった。紫藤さんが、著名人との交友や秘話、着物の未来を語った。
* * *
日本の着物を世界中で着られるファッションとして広めたい――これが私の夢です。着物をそのまま海外に持ち出しても、皆さん着付けが難しくて、簡単に着こなせるわけではありません。纏っていただいてこそ価値があるのに、ただ飾っているだけという人も沢山いらっしゃいます。だからこそ、着物の魅力を感じていただき、もっと皆さんの日常に取り入れてもらいたいという願いがあります。
和の文化に興味を持ったのは、幼い頃からの環境に理由があったと思います。3才から日本舞踊のお稽古へ、祖母に連れられて通ったのがきっかけです。毎日のように行っていましたね。それ以外にも、書道や華道など、和のお稽古事はほとんどしました。
東京の浅草に生まれて、育ったのは都内の別の場所でしたが、自宅に父が大きな檜舞台と音響設備を作ってくれました。私は4姉妹の長女で、父は娘たちに日本舞踊を習わせて、伝統や礼儀作法、美しい所作も兼ね備えた気品ある女性に育ってほしかったみたいです。今の人は畳生活ではないから、膝をついて「いらっしゃいませ」を言えないじゃないですか。そういう礼儀や行儀も、和のお稽古事をすれば身につけられるという考えも、父の中にはあったようです。
もともと、大学生の時はグラフィックデザインの勉強をしていたんですよ。絵を描くのも好きで、お友だちの結婚祝いとか、お家の新築祝いのときには、手書きの絵をプレゼントしていました。そういうとき、ただのキャンバスだと面白くないから、和紙だったり、正絹の羽二重という生地に絵を描いたりしていました。そこでもやっぱり、和の文化と近いところにいたかったんでしょう。
着物デザイナーとして独立する前には、古着の販売をした時期があります。生地の勉強をしたかったんですよね。1日に何百着も畳んだりしていましたから、自然と素材感が手を通して伝わってくる。その時に育った目利きの力というか、生地への理解は今でも生きていると思います。
着物業界関係者からは「雑巾みたい」とつまはじきに
今から約50年前にいざ着物デザイナーとして船出した後は苦労も多くありました。着物の基本って、一枚の反物から作る「花鳥風月」や「四季」「風景」といった考え方なんですよ。ちょっとずつ違いはあっても、お揃いのスタイルが定番で、オリジナリティとか、独自性みたいなものをエッセンスとして加えることはタブーな空気感があった。やはり着物というと、京都のイメージが強いですよね。でも私は“江戸”の生まれで、「はんなり」というより「粋でシャープ」に個性を際立たせたかったんです。
「他の人の真似事はしたくない」って姿勢の私が着物業界に乗り込んでいったもんだから、往年の関係者からは、「雑巾みたい」と言われたこともあります。仕立なんかもまだそこまで上手ではありませんでしたけど、皮肉を言いたいというのもあったと思います。正絹にブランドサインの鈴をつけたりしたときには「こんなものをつけて、なんたることか」って言われたり。
大きく風向きが変わったのは、着物デザイナーとして活動を始めて10年目のとき。知り合いの伝手で、スタイリストさんが訪ねてきました。中森明菜さんの衣装をデザインしてほしいというものでした。ただ、着付けができないから「簡単に着られるもの」という依頼でした。
その時にリリースを控えていたのがあの名曲『DESIRE -情熱-』でした。たしか、最初に話を聞いたときは、まだ曲がなかったのかな。2度目の打ち合わせのときには、曲ができていましたよ。アーティストの衣装を手がけるときには、曲を聴いてイメージしてから作っているんです。『DESIRE』も聞いて、「ロック調なので、とにかく体を動かしやすくしないといけないな」と思いました。なんとなく、振り付けも激しいものになりそうなイメージでしたから。その場で簡単なデザイン画も描きました。

ボブスタイルのかつらをかぶったのも私の影響なんですよ(笑い)
ただ、実際にあの衣装になったのは別の理由から。その後いくつか衣装を見繕って、着付けをしながら打ち合わせをしていたら「私(紫藤さん)みたいな格好で歌いたい」と中森さんがおっしゃったようで。仕事がら、私は日常的に着物のスタイルで、組紐をぶら下げたりして遊び心を入れて着ていたんです。それに彼女が興味をもったみたいでした。ボブスタイルのかつらをかぶったのも私の影響なんですよ(笑い)。その後、彼女は自分でアレンジを加えて、あの衣装を楽しんでいたみたいですね。
実際に衣装ができて、お披露目されてからも、始めのうちはあまり受け入れられている感じはしませんでした。あの頃の女性歌手は、みんなミニスカートのドレスを着て歌っていたわけです。それが、着物なのに組紐をジャラジャラ揺らして、しかも足元はブーツなんですから。でもそのインパクトが徐々に浸透して、NHK紅白歌合戦出場やレコード大賞を取ることにつながった。次の日から、私の着物に対する世間の見方というのが大きく変わったように感じました。一夜で変わったと思いますね。「なんだ、ありゃ?」というのが「カッコイイね!」になった瞬間でした。


『DESIRE』の印象は、今でも多くの人の心に残っているんでしょうね。2023年に、藤原紀香さんが日本テレビの特番で『DESIRE』をカバーすることになったときには、紀香さんのために新たに衣装を作りましたよ。テレビ局側からは「明菜さんの当時の衣装のレプリカを」という依頼でしたが、時代が変わって新しく進化していることを伝えたら、紀香さんが共感してくださって、その衣装をブラッシュアップする協力までしてくださいました。アトリエには10回くらい足を運んでくれたのかな。心を込めて彼女に合うよう全てアレンジして、アクセサリーなども新たに作りました。
メラニア大統領夫人には、オートクチュールで3点納めた
それ以外にも、あまり細かくはお話できませんが、マイケル・ジャクソンから衣装を作ってくれと依頼されたこともあります。来日したときに、お忍びで何度かお会いして、打ち合わせをしました。オーダーはいくつかありましたけど、ベースは真っ黒で、裏地は赤で、黒の部分はデコボコしたモダンな生地を使って、とか。金物をつけたり、前帯を斜めにかければ動きやすさを出せると提案したら、すごく喜んでくれていました。ただ、3着作ってお渡ししたあとに、お亡くなりになってしまった。すごく残念でした。
それから、アメリカの大統領に返り咲いたトランプさんの妻・メラニアさんにもお作りしました。2022年にニューヨークの「トランプタワー」で着物を販売する機会があり、それがメラニアさんの目に留まって、依頼を受けました。オートクチュールで3点でしたが、上から下までオールコーディネートであつらえました。関係者を通じて「喜んでいました」とメッセージも頂いてます。

最近だと、たまたま木梨憲武さんと知り合う機会があり、「銀座のママ役」の衣装を探しているというお話しになりました。そのときは私は着物姿でなかったので、「私の着物は、こんなデザインなの」と写真を見せたところ、木梨さんが「このまま、これになりたい」って(笑い)。1週間で、あれよあれよと話が進んで、昨年武道館で行われた「とんねるず」のライブ中の映像に、木梨さんが、私の着物姿で出ておられました。もともと木梨さんのファンだったし、着物を着るのも知っていたので、面白がってくれたのはよかったですね。
「KIMONO」で世界進出の夢
今後の目標は、世界のラグジュアリーをターゲットにすること。そのために2022年にアート・ブランド「AAAPARE(アーパレー)」を立ち上げました。着物デザイナーであると同時に、芸術家でもありたいと思っています。特に、帯の中でも最高級である「丸帯」。100年以上昔のヴィンテージ品にフォーカスをあてた素材選びにこだわりました。正絹で職人の織りも素晴らしいし、刺繍も本当に見事です。そして、数が少なく希少価値があります。その丸帯の絵模様の上に、金細工をつけることで新たなアート創作を試みました。ものによってはダイヤや貴石もつけたりして「繁栄」「高貴」「富」「栄光」といったメッセージを持つ、豪華な1点ものの「KIMONO」ができあがったのです。
海外に発信できれば、日本の着物の素晴らしさを再認識してもらえて、「こんな芸術的な作品もあるんだ!」と感動を与えられると思っています。またスーツケースなどに簡単に入れられ、わずか数分で着られる手軽さも、新たなフォーマルファッションとしての魅力だと思っています。エレガントな「KIMONO」が私たちの文化にあることを 日本人として誇りに思えるきっかけになってほしいと、切に願っています。
実は、今年4月4日に、「東京タワー」の後援で、単独ファッションショーを開催するんです。ブランドとしても、いよいよ皆さんにお披露目する段階が来て嬉しく思っています。ずっと願い続けてきた「着物で世界を感動させる」という夢が、今77才になって始まろうとしていることにワクワクしています。
~~プロフィール~~
紫藤尚世(しとう・ひさよ)芸術家/着物デザイナー
日本舞踊(名取師範):青柳光輔
書道家:梅畔
華道家:香里
1977年:紫藤尚世の名前を「伝通院」の住職に命名され着物デザイナーとして活動を始める。
1987年:中森明菜「DESIRE 〜情熱〜」(日本レコード大賞受賞)のデザインを担当。
1991年:着物を一般に広める目的で「ファッションショー」を開催。のちに33年間続く。
2005年:来日中のマイケルジャクソンから着物制作の依頼を受ける。
2016年:日本とアフリカ友好社会貢献イベント「アフリカ零年」にファッションショーで参加。
2017年:活動が、NHKワールドに特集され、ニューヨークタイムズから取材を受ける。
2019年:ドバイのハムダン皇太子が来店、着物がインスタにアップされ世界1600万人に公開。
2022年:ニューヨーク「トランプタワー」にて着物 SHITO HISAYOが販売される。
その作品がメラニア夫人の目に留まり、全3点オートクチュール着物の発注を受ける。
2022年: 世界をターゲットにしたアート・ブランド「AAAPARE」デビュー。
2024年: AAAPARE-ARTを現代アートとして創作を開始。
AAAPARE- ART「聖龍」「煌鶴」が神田明神に展示される。
2025年:「東京タワー」にて、AAAPAREとしては単独初のコレクション開催が決定。
アメリカンクラブ東京「ギャラリー」にてAAAPARE-ARTの個展決定。


