健康・医療

「江戸の養生訓」に学ぶ“元気になる”食生活 「おにぎりにみそ」「冷やご飯」「朝食にお粥」

浅草菴市人撰、葛飾北斎画『狂歌東遊』
浅草菴市人撰、葛飾北斎画『狂歌東遊』からは江戸の人々の賑わいが伝わる(写真/国立国会図書館デジタルコレクション)
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最初に「医者の不養生」と言ったのは、江戸中期の発明家・平賀源内だったとされる。この時代、医学や科学はもちろん、出版、食、演芸などあらゆる文化が急速に発展し、その多くが現代まで続いている。250年の時を超える文化の礎を築いた「長寿の名医・名将」に、本当に大切な養生を学ぼう。

庶民への啓発として健康法をまとめた『養生訓』

貸本屋から出版業を手がけ「江戸のメディア王」と呼ばれた蔦屋重三郎。彼が生きた1770年代の江戸の町では、庶民も当たり前に本を読むようになり、本草学者で儒学者の貝原益軒(かいばら・えきけん)による『養生訓』をはじめとする健康本や料理本などが次々とベストセラーとなった。

寿司やうなぎ、天ぷらに代表される食文化が花開いたのもこの時代。おいしいものを前にした庶民が、健康に気を使うことはほとんどなかったと、江戸料理研究家の車浮代(くるま・うきよ)さんが言う。

「蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)をモデルにした放送中のNHK大河ドラマでは、冒頭で大火が描かれました。そうした火災が日常的で、いつ命を落とすかもわからなかった江戸の人たちは食事を楽しむことに余念がなく、江戸は大阪より先に)食い倒れの町”と呼ばれていました。だからこそ、益軒のような医師が、庶民への啓発として健康法を著したのです」

益軒が学んだ儒教の学者・周敦頤(しゅう・とんい)の子孫で、南越谷健身会クリニック院長の周東寛さんが言う。

「医学の水準は大きく異なりますが、当時から健康にいいとされていたことの多くが現代まで残り、最新医学や科学によって正しいと証明されているのです」

いまよりはるかに平均寿命が短い時代に、85才という長寿をまっとうしたといわれる益軒。その教えや、江戸の人たちが実践した知恵を学ぼう。

和牛と大豆はほぼ同じ

江戸時代、精製された白米を口にできるのは、上級武士や商人などごく一部の特権階級だった。東京農業大学名誉教授で農学博士の小泉武夫さんが言う。

「庶民の主食は押し麦、かぼちゃ、さつまいもなど。これらには食物繊維や塩分を排出するカリウムが豊富で、白米よりも健康的。里いも、山いも、とろろいも、くわいなども)山薬”といわれ、珍重されました」

八代将軍・徳川吉宗が享保の改革を行い、精米技術が発達すると、江戸の町では庶民の食卓にも白米がのぼるようになる。だが、その結果)贅沢病”が流行しだす。

「『江戸煩い』ともいわれた脚気のことです。本来、日本人は1日2食が普通だったのが、食が豊かになったり、照明用の油が手に入りやすくなったことで夜が長くなり、この頃には1日3食が定着。1日に平均5合も白米を食べていたため、ビタミンB1不足になったと考えられます」(浮代さん)

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