
突然の別れからまもなく5年が経過する。国民的スターだった志村けんさん(享年70)の命日を前に、空き家状態が続いた自宅に大きな変化があった。長兄が初めて語った「遺品整理」の複雑な胸中──。【前後編の前編】
亡くなってから空き家だった志村さんの家が解体に
東京都三鷹市の閑静な住宅街の一角に、赤いれんが塀に囲まれたピンクベージュの外壁が目を引く一戸建てがある。表札が取り外され、郵便受けの投函口が粘着テープでふさがれたその建物からは、時折、大きな物音が聞こえてくる。驚いて足を止めた通行人の視線の先では、内壁や備え付けの家具を取り壊す解体工事が行われていた。
この家は、2020年3月29日に新型コロナウイルスによる肺炎で急逝した、志村けんさんの自宅だ。

「志村さんが亡くなってからずっと空き家でしたが、3月から解体が始まったようです。取り壊すことにしたのかな。30年以上前からある見慣れたお家ですから、なくなってしまうのは寂しいですね」(近隣住民)
3人兄弟の三男だった志村さん。この家は長兄・知之さんと次兄(後に次兄の妻)が相続したが、空き家状態が長く続いたことで、近隣からは「放置している」、「廃墟になった」などと囁かれていた。知之さんの知人が悔しさをにじませる。
「知之さんと奥さんは、必死に家を管理していました。当初は献花に訪れる人もいて、ファンに知られた家だったため、昼間に片付けると騒ぎになって周囲に迷惑がかかるからと、人目に付きにくい夜に自宅を訪れては、空気の入れ替えや庭の掃除をしていたんです。月に2回は通っていましたね。ただ昨年から知之さんの足腰が弱り、杖がないと歩くのが難しくなった。志村さんの自宅の管理がもう限界だったのは、誰の目にも明らかでした……そうした事情もあって、今年の1月に大手不動産会社に売却したんです」
弟の思い出が詰まった家を手離した知之さんは、その過程でさらなる苦渋の決断を下していた。
そのまま残された大量の遺品
志村さんが三鷹市に居を構えたのは、1987年のこと。7つの部屋を備えた2階建てのモダンな造りで、土地と建物を合わせた購入価格は、当時3億円超とも報じられた。
交友関係の広さで知られた志村さんだが、意外なことに、自宅には数名のお手伝いさんを除き、他人を招き入れることはほとんどなかったという。
「自宅では大半の時間を、大きなテレビがある15畳ほどの部屋で過ごしていました。コントに役立つヒント探しの一環として、大量の映画を鑑賞することがライフワークだった。その結果、書斎やリビングは、古いビデオテープやDVDであふれかえっていました」(芸能関係者)
「日本の喜劇王」とも称された志村さんだが、その活躍はバラエティーに留まらなかった。映画を鑑賞してコントの研究を重ねていた志村さんは、50代を境に俳優業にも挑戦。遺作となった連続テレビ小説『エール』(2020年/NHK)で作曲家を好演し、同年12月に公開予定だった映画『キネマの神様』では初主演の予定だった。当時、映画が完成していれば、日本アカデミー賞で主演男優賞を初受賞する可能性があったとみた映画関係者は少なくなかった。

異色の才能も光った。
「2004年に三味線を始めると、めきめきと上達していきました。その腕前はプロと共演しても引けを取らないほど。志村さんの自宅には、びっしりとメモ書きされた三味線のテキストがたくさん残されていたそうです。寡黙でシャイな志村さんが自宅に他人を入れたがらなかったのは、部屋中にある“努力の跡”を見られたくなかったからかもしれません」(前出・芸能関係者)
志村さんの死は青天の霹靂だった。2020年3月15日に倦怠感があり、自宅療養中だった志村さんは20日に容体が悪化。救急搬送先の病院で29日に息を引き取った。
異変を感じてから、わずか2週間。自宅に残されたすべての物が、彼が生きていた当時のまま手つかずで遺品となった。大量のビデオテープやDVD、レコードや書籍。さらには洋服や功績を称えた数々のトロフィー、愛用の調理器具や食器なども、そのまま残された。
志村さんが亡くなって以降、知之さんはメディアの取材に、「とにかく物がありすぎて、どこから手をつければよいのかわからない」と整理が進まない現状を嘆いてきた。
日本中が悲しみに暮れた突然の別れから、もうすぐ5年。自宅の解体工事は始まったが、志村さんの膨大な遺品はどうなったのか。