「腹違いの姉」がいた
番組では、三國さんの知られざる人生の轍を辿った。その中には、佐藤が知らない新事実もあった。三國さんは1923年、静岡県伊豆半島南西部で生まれた。父方の実家の家業は桶屋で、遺体を納める座棺などのいわゆる棺桶も作っていたという。当時、死にまつわる仕事は穢れとされ、差別の目を向けられることもあったという。
三國さん自身も14才で中学校を中退し、中国に密航。その後、朝鮮半島で孤独な日々を過ごした。中国で終戦を迎え、収容所に入れられる経験もした。
「収容所から早く帰国するために偽装結婚をするなど、なりふり構わない思いで、やっと日本の地を踏みました」(三國さんを知る芸能関係者)
その後、18才で結婚して長女をもうけるが、2才で亡くなった。早世してしまったが、佐藤にとっては「腹違いの姉」ということになる。
「浩市さんは、その事実を番組を通して初めて知りました。改めて父親の人生の複雑さを実感したのかもしれませんね。ただ、それ以上に衝撃的だったのは、三國さんとその両親の関係だったようです」(前出・芸能関係者)

三國さんの父は、佐藤正さん。母ははんさんという。はんさんの故郷は伊豆半島の漁村だった。漁業を営んでいたが嵐で収入源の船を失い、一家離散。はんさんは広島県呉市に奉公に出るも、17才の頃に伊豆に戻ってきた。
そのとき、はんさんは身重だった。気分が悪くなり、介抱してくれたのが正さんだったという。一晩かけて身の上を聞いた正さんは、彼女を受け入れることを決意し、誕生した三國さんを「自分の子」として出生届を提出した。
「実の子供じゃないというのを、三國はぼくに話してないと思います」
佐藤はそうコメントした。佐藤が初めて知った、父の出生の秘密だった。だが、実は三國さんは、生前その事実を懇意にしていた関係者や、佐藤の妻には明かしていたという。
「生前、自分と父親の血がつながっていないことを、三國さんは知っていました。でも、浩市さんにだけは言わなかったんです。三國さんは、自身が家庭や子と満足に向き合えなかった理由を、生い立ちや環境に責任転嫁するのを避けたかったのでしょう。幼い頃の浩市さんへの対応に、自分の中で葛藤があったのかもしれません。演技に対してはもちろん、人生に対しても言い訳を一切しない人でしたから」(前出・三國さんを知る芸能関係者)
しかし、佐藤は父と同様、冒頭のように自身の子育てにも葛藤を覚えることになったようだ。その思いを拭い去ろうとするかのように佐藤が長らく続けるのが、「週末里親」の活動だ。
「浩市さんは5年以上にわたって、元女優の奥さんと一緒にこの里親制度を利用しています。乳児院や児童養護施設の子供たちを週末や夏休みの期間中に預かるもので、これまでに20人以上の子供を『佐藤家』に受け入れてきたといいます。
寛一郎さんの独立後、奥さんの提案で始めたそうです。初めは手探りだったものの、いまではしっかりと子供と向き合い、接し方などを考えて受け入れています。注意しているのは“かわいそうな子”“不幸な子”などと決めつけないことだそう。浩市さんはかつて三國さん、寛一郎さんとのそれぞれの父子関係に悩んだ時期がありました。その中で気づいた家族の絆や葛藤が、いまの里親活動に生きているようです」(別の芸能関係者)
普段はあまりプライベートを語らない佐藤が、今回番組の企画を受けたのには、今年4月に三國さんの十三回忌を迎えたことが大きい。三國さんの生前、父子関係が変化したように、死後も時間の経過とともに、関係性は変化しているのかもしれない。そして、俳優・三國連太郎さんの生き様とその影響を受けた佐藤から寛一郎へと、父子三代にわたる役者の系譜は確実に受け継がれていく。
※女性セブン2025年5月22日号