
「ジャニーズ」の名前に終止符を打った世紀の謝罪会見から、はや1年9か月。この間、補償に専念してきた渦中の人物がついに沈黙を破った。強烈な個性を発揮した母と叔父の下、国民的アイドルを作った彼女の25年。本誌『女性セブン』だけが書ける、とっておきの裏話をおくる──。【前後編の前編】
《もし人生をやり直すことができるのだとしたら、絶対にジャニーズ事務所には戻らず、あのままJ Stormにい続けたかった》
ロングインタビューで語られたのは、運命に翻弄された“女帝”の知られざる苦悩と、嵐と歩んだ25年間にわたる激動の日々だった。
旧ジャニーズ事務所“最後の社長”藤島ジュリー景子氏への40時間以上に及ぶインタビューをまとめた書籍『ラストインタビュー 藤島ジュリー景子との47時間』(新潮社)が7月18日に出版される。発売に先駆けてインターネット上に公開された冒頭部分には、2023年に表面化した叔父・ジャニー喜多川氏の性加害問題への見解や、母・メリー喜多川氏との確執など、これまで語られることのなかった生々しい内情が記されていた。
「著者はミステリー小説『イノセント・デイズ』などで知られる作家の早見和真氏。ジュリー氏の『自分や家族、ジャニーズ事務所についてあらいざらい話したい』という要望で、1年以上前から複数回にわたってインタビューが行われたといいます」(芸能関係者)
被害者への補償問題が完全に解決していない段階で、自身の言い分を主張する本を出すことには批判もあるが、ジュリー氏は《自分と、いまも自分の近くにいてくれる人の名誉のために戦いたい》と奮起し、真実を伝える覚悟を決めたという。
「ただ、公開されている目次を見る限り、育ててきたタレントに対する言及は少ないと思われます。“ジャニーズファン”が本当に知りたいことがどこまで触れられているのか……」(前出・芸能関係者)
冒頭でジュリー氏が言及した「J Storm」(現ストームレーベルズ)は、2001年に設立された旧ジャニーズ事務所の関連会社。嵐やTOKIO、関ジャニ∞(当時)などが所属していたレコード会社で、2023年10月に旧ジャニーズ事務所が廃業するまでジュリー氏が社長を務めた。

「“Storm(嵐)”の社名が示す通り、もともとは嵐のために立ち上げられたプライベートレーベルで、設立からの約4年間は嵐以外にアーティストはいませんでした。拠点は東京・港区にあった旧ジャニーズ事務所から離れた渋谷区のビル。デビュー当初、芽の出なかった嵐が、ジュリー氏の手腕で国民的グループと呼ばれるまでに成長したサクセスストーリーの原点として知られています」(前出・芸能関係者)
ジュリー氏が語ったように、旧ジャニーズ事務所の社長に就かず、嵐や関ジャニ∞らを連れて独立していれば、いまとは違う未来があったかもしれない。しかし、同族経営の旧ジャニーズ事務所において、彼女が家業を継ぐことは逃れられない宿命だった。
「メリー氏はジャニー氏の後を娘に継がせるために、早い段階から動いていました。旧ジャニーズ事務所でTOKIO(1989年デビュー)のマネジメントを担当したのも修業の一貫。1997年にはKinki Kidsのために設立されたレコード会社『ジャニーズ・エンタテイメント』の社長にも就いています。もっとも、将来の夢は『専業主婦』と公言していた当時の彼女に芸能界の仕事を続ける気はなく、レコード会社の社長からもあっさり降りています」(前出・芸能関係者)
そのジュリー氏を初めて本気にさせたグループが嵐だった。
俺はもうどこかに行きたかった
前述のインタビューでジュリー氏は、「J Storm」を設立した理由をジャニー氏とメリー氏との決別だったと語っている。その背景にはSMAPを大スターに育て上げた敏腕マネジャー、A氏の存在があったともいわれる。
「SMAPが旧ジャニーズ事務所にもたらした利益は莫大で、メリー氏は一時期、実の娘以上にA氏を重宝し、彼女を秘書代わりにして連れ回していました。ジュリー氏は次第にA氏をライバル視するようになり、互いに目を合わせようともしない2人の扱いに、テレビ局も苦慮していたほど。ある局では、ジュリー氏が担当するタレントを『J1』、SMAPやKis-My-Ft2などA氏が受け持つタレントを『J2』と明確に区別し、スタジオなどで両者が鉢合わせることがないよう、細心の注意を払っていました」(テレビ局関係者)
嵐がジュリー氏の期待に応え、SMAPをもしのぐ息の長い人気グループとなったことは周知の通り。彼らにとって、ジュリー氏はジャニー氏以上に大きな存在だった。
「ジャニーズ廃業後も、交流は続いていたようで、ジュリー氏はインタビューで櫻井翔さんや相葉雅紀さん、松本潤さんとはいまも《対等に近い関係》だと語っています。大野智さんとは、めったに会わないものの《会えば仲良し》なのだとか。一方で、二宮和也さんとの間には大きな溝があるようで、《近年二宮とは距離があります》と唐突に告白したことがファンや関係者に衝撃を与えました」(芸能リポーター)

兆候は2023年頃からあった。ジャニー氏の性加害問題の責任を追及された旧ジャニーズ事務所が、廃業に向けた準備を進めていたときのことだ。
「ジュリー氏から独立と残留、新事務所への移籍という3つの選択肢が提示され、多くのタレントが逡巡する中で、二宮さんはいち早く“完全独立”を表明したのです。答えを出すまでに2週間とかからなかったといいますが、活動休止中の嵐の先行きが不透明なまま、早々と離脱した彼の行動にはほかのメンバーも驚いていたといいます」(前出・芸能関係者)
後に二宮は、独立の理由をインタビューでこう語っている。
《色々とあったのよ。俺だけの話じゃなくて全体の話として色々提案してみたけど、全部ダメだったから(中略)“ちょっとしんどくない?”っていう》(「+act.」2024年3月号)
それは、育ての親であるジュリー氏への反発でもあった──。
(後編へ続く)
※女性セブン2025年7月3・10日号