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「DOMOTO」に“進化”した堂本光一&堂本剛 “つかず離れず”の2人が選んだ「解散しない」の覚悟 12万人に誓った決別と再生のリスタート

なぜぼくらが紅白に出られないんだ

1995年にはドラマ『金田一少年の事件簿』(日本テレビ系)の主演で剛が俳優としてブレーク。2人の時代が来ることを予想した事務所は1997年、彼らのために新たなレコード会社を設立した。

「同年7月に山下達郎さんが作曲し、松本隆さんが詞を書いたファーストシングル『硝子の少年』がリリースされると、事務所側の予想を大きく上回る180万枚近くを売り上げる大ヒットを記録。その後も次々にミリオンセラーを連発し、11作連続で100万枚を超す驚異的な記録を打ち立てたのです」(レコード会社関係者)

2年後にデビューした嵐が伸び悩む中、キンキはたったひと組で、レコード会社が目標に掲げていた初年度の売り上げ30億円を軽々と突破し、事務所に莫大な利益をもたらした。

「当初の予定では、キンキの2人は16才のときにCDデビューするはずだったんですが、2年遅れて18才にずれ込んでしまった。周囲は『タイミングを逃した』『もう遅い』と、そりゃもうひどい言われようでしたよ。

ところが、ファンは待ち続けてくれて、結果的に特大ホームランにつながった。功を焦ってデビューを慌てないという、旧ジャニーズ事務所の方向性を決定付ける出来事になりました」(前出・レコード会社関係者)

KinKi KidsからDOMOTOへと進化
写真3枚

意外にも彼らがNHK紅白歌合戦に出場したのは、SMAPのバックダンサーや企画枠以外には2016年と2022年の2回のみ。剛が「なぜ100万枚以上売ってるぼくらが紅白に出られないんだ」とボヤいていたこともあるという。

「レコード会社を活動の拠点とした2人は、旧ジャニーズ事務所とは別会社のタレントのような扱いでした。事務所内の派閥問題とも無縁だった一方、枠が限られていた紅白に出るための“政治力”に乏しく、出場は至難の業だったのです。

ある年のカウントダウンコンサートで、光一さんが“おれら、中立な”と発言したことが波紋を広げましたが、強いていえば彼らは“ジャニー派”。特に嵐の育成に心血を注いでいた藤島ジュリー景子前社長とは、かなり距離があったようです」(前出・芸能関係者)

ジャニー氏の寵愛を受けていたことで知られる2人。光一は2000年から24年間続いたミュージカル『SHOCK』シリーズの座長として共演者を牽引し、ジャニーイズムを継承した。剛にとっても、ジャニー氏は何でも話せる父親代わりのような存在で、過去にはマンションの一室を譲り受けたこともある。それだけに、2023年に表面化したジャニー氏の性加害問題は彼らにとっても許し難い出来事だった。

「光一さんは会見を開いて、『×(バツ)をつけて、十字架にする』と、ジャニー氏との決別を宣言し、剛さんはノーコメントを貫きつつも、翌年3月末に事務所を退所しました。

この頃から、ジャニー氏が名付けたグループ名と決別し、再生の道を歩むことを2人で話し合っていたそうです。仕事以外で会うことはほとんどなく、2人とも自嘲気味に『ビジネスコンビ』と言っていますが、これまでに一度も解散の話は出たことがないそうです」(別の芸能関係者)

前述のYouTubeの生配信は、12万人ものファンが視聴し、変わらぬ彼らの人気ぶりを示していた。

「光一さんは、『変わっていかなければなくなってしまうんです』と意味深に語り、今回の改名が2人にとって必要なことだったと力説。剛さんも『自分たちの心地よい変化の仕方ができるといいですね』と大らかに語り、それぞれの言葉でこれからも活動を続けていく覚悟を示唆しています。DOMOTOとして新曲を出すことも検討しているそうです」(前出・芸能関係者)

グループ名が変わっても30年来の絆が変わることはない。奇跡的に出会った運命の2人は、この先も2人だけの軌跡を描き続ける。

※女性セブン2025年8月14日号

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