
かつてのアイドル帝国でも唯一無二の存在感を誇った2人。時に“ビジネスコンビ”と自虐するが、適度な距離感で33年の歴史を紡いできた彼らが重大な決断を下した。「解散しない」覚悟を固めた2人の胸中に迫る。
「われわれはDOMOTOというグループに“進化”いたします」
7月21日、KinKi Kids(以下、キンキ)の堂本光一(46才)と堂本剛(46才)が、東京ドームでYouTubeの生配信を行い、30年近く守り続けてきた屋号を変えて、再出発することを宣言した。
「光一さんがタキシードで正装していたのに対し、剛さんは黄色のジップアップシャツというラフな装い。ファッションに対する考え方ひとつをとっても両極端に分かれる2人ですが、互いの価値観を押し付け合わず、自由に振る舞うスタイルこそが彼らの魅力。光一さんは“つかず離れずの関係”こそが、グループが長続きする秘訣だと語っていました」(芸能リポーター)
配信では、光一がグループ名を変えた経緯を説明し、「けっこう前から話していた形ではあるんですけど、いろいろなかたのご協力を得た上でやってまいりました。剛くんがいま言ったように“進化”といった形になればいいな」と願望を語り、剛は「アップデートです」と前向きな再出発であることを強調した。
キンキのデビューは1997年7月だが、結成はさらに1990年代初頭にまで遡り、旧ジャニーズ事務所においては、少年隊に次ぐ息の長いグループとして親しまれていた。
「12才のときに、それぞれが事務所に送った履歴書がジャニー喜多川氏の目に留まり、光GENJIのコンサートに呼ばれたことが初めての出会い。共に近畿地方出身で同い年、同じ名字だったことから、2人で活動するようになったといいます」(芸能関係者)

デビュー直後のSMAPのバックで踊ったり、アイドル誌のグラビアなどに出演したりするようになったが、正式なグループ名が決まるまでは、「堂本ブラザーズ」や「KANZAI BOYA」などさまざまな名前で呼ばれていたという。
「1993年に2人が“兄”と慕う中居正広さんが司会を務める番組内で『KinKi Kids』という名前が発表されました。グループ名への2人の不満を感じ取ったジャニー氏が、急きょ考案したグループ名だったのですが、光一さんは『たいして変わってない』と愕然とし、剛さんは『おれたち終わったな』とショックを受け、その後もなかなか受け入れられずにいたのだとか」(前出・芸能関係者)
それでも、ファンには浸透し人気が急上昇。1994年にはデビュー前にもかかわらず、日本武道館でファーストコンサートを行い、会場を満員にした。
「当然持ち歌はないので、先輩たちの曲に自分たちで振りをつけて、構成も考えたそうです。後に、彼らが当時のアイドルとしては異例のセルフプロデュースを行い、アーティスト路線に傾倒していくようになった原点としても知られる伝説のコンサートです」(前出・芸能関係者)
なぜぼくらが紅白に出られないんだ
1995年にはドラマ『金田一少年の事件簿』(日本テレビ系)の主演で剛が俳優としてブレーク。2人の時代が来ることを予想した事務所は1997年、彼らのために新たなレコード会社を設立した。
「同年7月に山下達郎さんが作曲し、松本隆さんが詞を書いたファーストシングル『硝子の少年』がリリースされると、事務所側の予想を大きく上回る180万枚近くを売り上げる大ヒットを記録。その後も次々にミリオンセラーを連発し、11作連続で100万枚を超す驚異的な記録を打ち立てたのです」(レコード会社関係者)
2年後にデビューした嵐が伸び悩む中、キンキはたったひと組で、レコード会社が目標に掲げていた初年度の売り上げ30億円を軽々と突破し、事務所に莫大な利益をもたらした。
「当初の予定では、キンキの2人は16才のときにCDデビューするはずだったんですが、2年遅れて18才にずれ込んでしまった。周囲は『タイミングを逃した』『もう遅い』と、そりゃもうひどい言われようでしたよ。
ところが、ファンは待ち続けてくれて、結果的に特大ホームランにつながった。功を焦ってデビューを慌てないという、旧ジャニーズ事務所の方向性を決定付ける出来事になりました」(前出・レコード会社関係者)

意外にも彼らがNHK紅白歌合戦に出場したのは、SMAPのバックダンサーや企画枠以外には2016年と2022年の2回のみ。剛が「なぜ100万枚以上売ってるぼくらが紅白に出られないんだ」とボヤいていたこともあるという。
「レコード会社を活動の拠点とした2人は、旧ジャニーズ事務所とは別会社のタレントのような扱いでした。事務所内の派閥問題とも無縁だった一方、枠が限られていた紅白に出るための“政治力”に乏しく、出場は至難の業だったのです。
ある年のカウントダウンコンサートで、光一さんが“おれら、中立な”と発言したことが波紋を広げましたが、強いていえば彼らは“ジャニー派”。特に嵐の育成に心血を注いでいた藤島ジュリー景子前社長とは、かなり距離があったようです」(前出・芸能関係者)
ジャニー氏の寵愛を受けていたことで知られる2人。光一は2000年から24年間続いたミュージカル『SHOCK』シリーズの座長として共演者を牽引し、ジャニーイズムを継承した。剛にとっても、ジャニー氏は何でも話せる父親代わりのような存在で、過去にはマンションの一室を譲り受けたこともある。それだけに、2023年に表面化したジャニー氏の性加害問題は彼らにとっても許し難い出来事だった。
「光一さんは会見を開いて、『×(バツ)をつけて、十字架にする』と、ジャニー氏との決別を宣言し、剛さんはノーコメントを貫きつつも、翌年3月末に事務所を退所しました。
この頃から、ジャニー氏が名付けたグループ名と決別し、再生の道を歩むことを2人で話し合っていたそうです。仕事以外で会うことはほとんどなく、2人とも自嘲気味に『ビジネスコンビ』と言っていますが、これまでに一度も解散の話は出たことがないそうです」(別の芸能関係者)
前述のYouTubeの生配信は、12万人ものファンが視聴し、変わらぬ彼らの人気ぶりを示していた。
「光一さんは、『変わっていかなければなくなってしまうんです』と意味深に語り、今回の改名が2人にとって必要なことだったと力説。剛さんも『自分たちの心地よい変化の仕方ができるといいですね』と大らかに語り、それぞれの言葉でこれからも活動を続けていく覚悟を示唆しています。DOMOTOとして新曲を出すことも検討しているそうです」(前出・芸能関係者)
グループ名が変わっても30年来の絆が変わることはない。奇跡的に出会った運命の2人は、この先も2人だけの軌跡を描き続ける。
※女性セブン2025年8月14日号