
20代、30代と子育てに奔走してきた相川は、40才を迎えて“学び直し”を決意し、高卒認定試験に合格。45才で國學院大學に進学し、いまも大学院で学び続けている。そんな彼女は、音楽性だけでなく、夫婦が描く“未来”にも、違いを感じてしまっていたという。
「子育てってずっと続いていくものじゃなくて、息子2人も成人し家から出ていってしまう日が直前に来ていて。娘もあと何年一緒にいてくれるのかなって考えると、50代以降、どうやって生きていくんだろうって不安になってしまったんです。
これまで通りだと、仕事もどんどん小規模になっていくかもしれないなか、私は新しいことをやりたいと思うようになっていて、変化を求めていました。彼は年上なので、その先の自分の姿を見ていましたが、私は子供が手を離れてきた50代。あと20年は現役で歌い続けたい。そういった価値観のギャップも、離婚に至った原因の1つだったのかもしれません」
それでも20年以上連れ添った2人は、“夫婦でいられる関係”を模索した。
「夫婦げんかはどこのご家庭でもあると思うんですよね。私たちも、ずっとそういうことはあったんですけど、家でも一緒、仕事でも一緒となってくると、お互いに逃げ場がない。だから、いまから2年ほど前に『環境を変えてみよう』という話になったんです。
曲作りや大学のレポートを書くときなんかは、ホテルの一室を借りてやっていたのですが、ホテルは何か違うなと。普段の家事や、子供たちの習い事の送迎は私がやっているので、家族の家の近くにもうひとつ家があれば行き来できると思い、“別宅”を借りて、二拠点生活を始めました」
1年の別居生活を経て、夫婦が出した結論は“離婚”だった。相川の方から切り出したという。
「環境を変えても関係は改善しませんでした。私は彼をクリエーターとしても尊敬してきましたが、このまま続けると、その気持ちまでなくなり、家族でさえいられなくなってしまうという思いになりました。どうしても家族が壊れるのだけは避けたかったんです。
彼もこのような未来は描いていなかったと思いますが、『家族として仲よくいられるのだったら“夫婦であること”に固執しなくてもいいのかな』と、お互いにそう考えるようになっていました」
“家族を守るため”の離婚届は相川がひとりで提出した。当時の心境を振り返る。
「『婚姻届じゃないので2人で行くのもおかしいよね』という話になり、私が行きました。出す直前、いろいろな思いが頭をよぎりました。紙切れ一枚なのに、これを出すと夫婦ではなくなる……本当にこれでいいのか、大丈夫なのか。でも、家族としての関係は変わらないと信じて出そうと。その日の気持ちはずっと重かったですね」
(後編へ続く)
※女性セブン2025年10月9日号