
古今東西、家族関係の悩みはなくならない。実際の事件を紐解くと、深い憎しみが、一線を越えてしまう悲劇が明らかに──。
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「お腹減ったよ…」
群馬県南西部に位置するとある村のあばら家で、小さい子供たち3人が母親のエツ(仮名・32才)に泣きながら空腹を訴えていた。
1945年3月、太平洋戦争末期で多くの国民が飢えに苦しみ、いつ終わるとも知れない戦時下を何とか生き延びようとしていた時期である。エツは内縁の夫で日雇い労働者の武市(仮名・33才)と、武市の先妻の子・カヨ(仮名・17才)、エツの連れ子で9才の女児、エツと武市の子供である6才と4才の兄弟で暮らしていた。
毎日のように空腹で泣く子供たちを見つめながら、なんとか腹を満たしてやろうと思案したエツは土間に下り、かまどに置いてある鍋から昨晩作ったみそ汁の残りを与えようと蓋を開けた。とたん、蓋を持つエツの手が震えだした。
「あのろくでなしが…」
子供たちのために残していたみそ汁を武市が飲み干していたのだ。エツが土間からふと後ろを振り返ると、そこには駄々をこねて泣く幼い子供たちのそばで、じっとしているカヨがいた。
その晩、武市と子供たちの前に肉鍋が置かれた。エツの家ではめったに出ないごちそうだ。
「カヨ姉ちゃんにも食べさせたかったね!」
肉をかじりながら子供たちがそう言ったかはわからないが、その場にカヨはいなかった。
それから7か月後、下仁田警察署の巡査が村人の戸籍調査のためにエツの家を訪れたところ、以前見かけたカヨがいないことに気づいた。
エツにカヨはどこにいるのか尋ねると、「前橋に行っています」と曖昧に言うだけで明確な場所を答えることができず、不審に思った巡査は翌月、エツに事情聴取。
すると、カヨが病死したため自宅の庭先に埋めたと供述。その後も取り調べを続けたところ、エツはカヨを殺害して、その肉を子供たちに食べさせたことを自供したのだった。
当時の地元紙などで、《少女絞殺 食糧難に伴う悲劇》《群馬に戦慄の人肉事件》とセンセーショナルに取り上げられたことが事件のあまりのおぞましさを物語る。
「過去の新聞を見るとカヨは一家の働き手になり得る年齢でありながら、精神的な病を抱えていたため社会に溶け込むことが難しく、じっと家で過ごしていたそうです。当然カヨが家事を手伝うこともなかったので、エツは普段から疎ましく思っていたと報じられています。実子でなかったというのも理由のひとつでしょう。
そして、食糧難でもあったことから、3人の子供を外で遊ばせているうちにカヨを殺害した後、のこぎりで骨を切断し、包丁で肉を切り刻み、鍋にしました。供述した通り、骨は庭先に埋められていた。エツは精神鑑定を受けた結果、心神耗弱が認められて懲役15年の刑となりました」(地元紙記者)
ちなみに肉鍋は3日間続いたが、武市は何かを察してかまったく口にしなかったという。
※年齢は事件当時。
※女性セブン2025年11月13・20日号