陰陽道は室町時代の中盤まで国の政に影響力
日本人と占いの歴史は古代から始まる。
弥生時代、卑弥呼は「鬼道(きどう)」と呼ばれる呪術や占いで邪馬台国を治めたとされ、日本最古の歴史書である『古事記』には、鹿の骨を焼いてできたひび割れで吉凶を占う「太占(ふとまに)」と呼ばれる占術の記述が残る。
飛鳥時代以降は、中国の影響が大きくなった。『占いと中世人』(吉川弘文館)の著者で歴史学者の菅原正子さんが説明する。
「6世紀頃、亀の甲羅を焼いてできるひび割れの形や位置から神意や吉凶などを占う『亀卜(きぼく)』が朝鮮半島経由で伝わり、天皇の朝廷にいる神祇官(じんぎかん)がこの亀卜を行うようになりました」

さらに遣隋使や遣唐使を通じて「陰陽五行思想」が伝わったことも、日本にとって大きな出来事だった。
「この世の現象を『陰と陽』、『木・火・土・金・水』ですべて性格づける思想で、日本独自の『陰陽道』に発展しました。平安時代には安倍晴明をはじめとする陰陽師が朝廷の役人として天文占いや式盤を用いた占いを行い、天皇の政治にさまざまな助言を与えています。なかでも災いの前兆として恐れられたのが彗星で、彗星が出現すると朝廷は祈祷を行っていました」(菅原さん・以下同)
藤原道長や足利義満など、時の権力者が好んだ陰陽道は、室町時代の中盤まで国の政(まつりごと)に影響力を持っていた。その後、戦国時代に突入すると「易占い」が広まった。
「中世に設けられた高等教育機関である足利学校では、中国の儒学の書物『易経(えききょう)』とともに陰陽と八卦(はっけ)・六十四卦(ろくじゅうしけ)を用いて物事の変化や吉凶を占う『易占い』を教えていました。この占いは戦国大名に伝わり、特に武田信玄は重要な決断をする際に易占いに頼ったといわれています」
近代的な科学が未成熟で、自然現象は「天の意思」を表して起こると考えられていた中世の時代、将軍や官僚だけでなく、一般庶民にとっても占いは日常生活に溶け込んだものであった。当時の民間の職人を描いた絵巻物には陰陽師や仏教系の占星術「宿曜道(すくようどう)」を行う宿曜師、人相を見る相人、算木(さんぎ)という木片を使って占う算置(さんおき)の姿が描かれている。盗難に遭うと、占い師に犯人を捜してもらうこともあったという。
現代に通じるさまざまな風習も中世にルーツを持つ。
「神社やお寺にあるおみくじはもともと神の意思を示すもので、神職の人にしか扱えませんでした。少なくとも室町時代には存在していて、第六代将軍の足利義教はほかの候補者がいるなか、石清水八幡宮でくじ引きをして選ばれた。
また、人相占いや地相占い、夢占いも鎌倉時代には存在しています。現在でも『仏滅』や『大安』といった形で私たちの生活に浸透している六陽暦は、当時の陰陽五行をベースにさまざまな占いを組み合わせたものです」

戦国の世が終わり、天下泰平の江戸時代になると人相占いやおみくじがブームになり、出版された書物を通じて手相占いや姓名判断が庶民に浸透した。
近代になると開国によって西洋占星術などの西洋占いが流入し、日本の占いの裾野が広がる一方で“政占分離”が進む。
「将軍のために易占いを行うなど、江戸時代までは政治と占いは密接につながっていました。しかし明治期に西洋流の政治に移行し、政治と占いが切り離されたのです」
(第2回に続く)
※女性セブン2026年6月25日号