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石川さゆり、亡くなった同郷の親友と“果たせなかった約束” 「歌は誰かのために歌うもの」歌手人生の大きな転機となった水俣病患者との交流

演歌歌手の石川さゆり
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「演歌の女王」がブレークしたばかりだった約半世紀前。誰よりもその姿に憧れたのは、生まれながらに公害で苦しみを背負わされた同世代の若者たちだった。歌は誰かのために──そう思うきっかけをくれた「親友」とスター歌手・石川さゆり(68才)の交流を追った。

水俣市でのコンサート

《「若い時、ハンサムでしたよ。お互いに年を重ねたね」と言いながら、笑った日のこと、思い出します。いっぱい私も勇気や励まなければできないこと、教えていただきました。ありがとうございました。ゆっくりと、優しく、永眠くださいませ》

 9月23日、自身のインスタグラムに《信じたくない、悲しい知らせ》としてこう綴ったのは、歌手の石川さゆり。2日前に亡くなった彼女の“同郷の親友”金子雄二さん(享年71)を追悼する一文だった。

 金子さんは、母親の胎内で有機水銀を取り込み四肢などに生まれながらに障害がある「胎児性水俣病患者」のひとり。水俣病が公式確認されて70年の節目にあたる今年、ほかの患者たちと一緒に、熊本県出身の石川を招いて水俣市でコンサートを開こうと企画していた矢先の訃報だった。

 コンサートの企画を主導したのは胎児性水俣病患者らで結成した「若かった患者の会」。同会で患者たちを支えている徳冨一敏さんが語る。

「石川さんはコンサートに向けて『どこかで患者さんたちとゆっくりお話しする機会をつくれたら』と言ってくれていました。金子さんも5年前から患っていた膀胱がんと闘いながら対面に向けて熱意を燃やしていましたが、11月21日の本番まであと2か月というところで帰らぬ人になってしまった。葬儀には石川さんから鉢に植えた花が届き、金子さんも少しは報われたのかなと思います」

 冒頭の追悼文で、金子さんを《親友》と呼んだ石川。彼女が金子さんたち胎児性水俣病患者と出会ったのは、約半世紀前のことだった。金子さんの友人で同じく胎児性水俣病患者の滝下昌文さん(70才)が振り返る。

「当時20代前半だった私たちは、障害で中学卒業後は進学も就職もままならず、鬱屈した日々を送っていました。金子は昼間からパチンコ屋に通い、非難されると『仕事もないんやから、こがんとするしかないやろ』とよく怒っていました」

2010年、石川(左上)と水俣市で30年ぶりに再会した金子さん(下)と滝下さん(右上)(石川のインスタグラムより)
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 何でもいいから自分たちの力で何かを成し遂げたい──そんな切実な思いを抱えていた金子さんら若い患者の目に飛び込んできたのが、テレビで活躍する石川の姿だった。1977年、石川は『津軽海峡・冬景色』の大ヒットで一躍人気歌手となり、同年末の『NHK紅白歌合戦』に19才で初出場を果たしていた。

「紅白で石川さんを見た直後の1978年1月、前環境庁長官の石原慎太郎さんが水俣市にやってきて、患者の陳情を聞く機会がありました。石原さんは長官時代にも水俣を訪れており、若い患者たちが仕事を求めていることを知っていました。懇談の場で具体的に何をしたいか問われた私や金子は、ほとんど直感的に『石川さんを水俣に呼びたい』とお願いしたのです」(滝下さん)

 石原さんは弟の裕次郎さんが所属する石原プロモーションを通じて、当時石川が所属していたホリプロに打診。1978年9月に開催が決まり、夢は突然、現実に変わった。

「金子と一緒に『石川さゆりを招ぶ若い患者の会』を立ち上げ、段ボールに貼ったポスターをひもで電柱に巻き付けて回りました。チケットも手売りして、自分たちでさばいたんです」(滝下さん)

 その熱意に、20才になったばかりの石川も全身全霊で応えたという。

「コンサート当日は石川さんを空港で出迎え、みんなでお昼ご飯を食べました。同世代の気さくさもあり、水俣市にある患者の療養施設『明水園』でコンサート前に一曲歌ってもらえないかとお願いしたんです。

 プロの歌手に頼むにはぶしつけなお願いでしたが、石川さんは『本番に向けて喉の調子を万全にしたいから』と歌は断ったうえで、代わりに『花束を手渡しに行くのはどうか』と自ら提案し、明水園を急きょ訪ねてくれました。コンサート本番は立ち見が出るほど盛況だったのに、石川さんはバンドやスタッフにかかる金額を除いて、ギャラを1円も受け取らなかった。本当に真摯に患者に寄り添ってくれたと思います」(滝下さん)

 明水園で患者の手を握り締めた石川は、後日、新聞の取材にこの日のことを「言葉にならないくらいショックを受けた」と語り、「歌は誰かのために歌うもの、と思うようになりました」と、歌手人生の大きな転機になったことを明かしている。

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