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有名芸能人の舞台やドラマ、アーティストの衣装を数多く手がけるデザイナー・紫藤尚世(しとう・ひさよ)さん(77才)は、着物の魅力を世界に発信する活動を続けている。和文化の基礎を残しつつ、西洋のアクセントを取り入れた紫藤さんの「KIMONO」の存在感を高めたのは、中森明菜が歌った伝説の一曲だった。紫藤さんが、著名人との交友や秘話、着物の未来を語った。
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日本の着物を世界中で着られるファッションとして広めたい――これが私の夢です。着物をそのまま海外に持ち出しても、皆さん着付けが難しくて、簡単に着こなせるわけではありません。纏っていただいてこそ価値があるのに、ただ飾っているだけという人も沢山いらっしゃいます。だからこそ、着物の魅力を感じていただき、もっと皆さんの日常に取り入れてもらいたいという願いがあります。
和の文化に興味を持ったのは、幼い頃からの環境に理由があったと思います。3才から日本舞踊のお稽古へ、祖母に連れられて通ったのがきっかけです。毎日のように行っていましたね。それ以外にも、書道や華道など、和のお稽古事はほとんどしました。
東京の浅草に生まれて、育ったのは都内の別の場所でしたが、自宅に父が大きな檜舞台と音響設備を作ってくれました。私は4姉妹の長女で、父は娘たちに日本舞踊を習わせて、伝統や礼儀作法、美しい所作も兼ね備えた気品ある女性に育ってほしかったみたいです。今の人は畳生活ではないから、膝をついて「いらっしゃいませ」を言えないじゃないですか。そういう礼儀や行儀も、和のお稽古事をすれば身につけられるという考えも、父の中にはあったようです。
もともと、大学生の時はグラフィックデザインの勉強をしていたんですよ。絵を描くのも好きで、お友だちの結婚祝いとか、お家の新築祝いのときには、手書きの絵をプレゼントしていました。そういうとき、ただのキャンバスだと面白くないから、和紙だったり、正絹の羽二重という生地に絵を描いたりしていました。そこでもやっぱり、和の文化と近いところにいたかったんでしょう。
着物デザイナーとして独立する前には、古着の販売をした時期があります。生地の勉強をしたかったんですよね。1日に何百着も畳んだりしていましたから、自然と素材感が手を通して伝わってくる。その時に育った目利きの力というか、生地への理解は今でも生きていると思います。
着物業界関係者からは「雑巾みたい」とつまはじきに
今から約50年前にいざ着物デザイナーとして船出した後は苦労も多くありました。着物の基本って、一枚の反物から作る「花鳥風月」や「四季」「風景」といった考え方なんですよ。ちょっとずつ違いはあっても、お揃いのスタイルが定番で、オリジナリティとか、独自性みたいなものをエッセンスとして加えることはタブーな空気感があった。やはり着物というと、京都のイメージが強いですよね。でも私は“江戸”の生まれで、「はんなり」というより「粋でシャープ」に個性を際立たせたかったんです。
「他の人の真似事はしたくない」って姿勢の私が着物業界に乗り込んでいったもんだから、往年の関係者からは、「雑巾みたい」と言われたこともあります。仕立なんかもまだそこまで上手ではありませんでしたけど、皮肉を言いたいというのもあったと思います。正絹にブランドサインの鈴をつけたりしたときには「こんなものをつけて、なんたることか」って言われたり。