石原さとみが立ち上げる“人間”
石原さんに対して、どのようなイメージをお持ちでしょうか。
やはり多くのかたが“華々しいスター”のイメージを持っているのではないでしょうか。『ミッシング』のような作家性の強い作品よりも、映画『忍びの国』(2017年)や『そして、バトンは渡された』(2021年)といった、万人に開かれたエンターテインメント作品に数多く出演してきた事実があります。
しかも、放送中の主演ドラマ『Destiny』(テレビ朝日系)や彼女の代表作のひとつである『アンナチュラル』(2018年/TBS系)などの成功から、“テレビの人”という印象が強くある。賛同されるかたは多いはずです。『Destiny』も『アンナチュラル』もめっぽう面白い。彼女が主演するドラマは純粋に観たいと思えます。つまり、テレビの世界に必要な人なわけです。
しかし石原さん本人は、「どこかで私自身が自分に飽きてしまっている感じがしていました。そして私が自分自身に対して“つまらない”と思ってしまっている部分は、おそらく世間からも同じように思われているんだろうなと」(プレス資料より)と考えていたようで、そんなときに吉田監督の作品に出会ったのだそうです。
吉田監督の作品はいつも、観る者の心をえぐります。劇中で起こっていることを無関係の立場から眺めていたはずなのに、気がつけばある種の当事者として引きずりこまれてしまう。作品によっては観るのに体力が要ります。本作はまさにその極地ともいえる一作。石原さんが立ち上げるのは、エンタメ作品に登場するどこか現実離れした存在ではありません。ごく身近にいるひとりの“人間”なのです。
役を生きる石原さとみ
本作の石原さんを見ていると、これがフィクション作品であることを理解しつつも、心配になってきます。疲弊していて顔色が悪く、そこにいるのはテレビで目にするあの石原さんとはまったくの別人。沙織里というキャラクターを演じるにあたり、肌や髪の毛といった細部までこだわったそうです。
細かなところまで役作りをする俳優は多くいますし、演技者なのであればやるのが当然といえば当然。けれども地上波のテレビドラマではそうはいきません。制作の体制がまったく違いますから、そこまで役を掘り下げることができなかったりする現状がある。テレビドラマと映画では重視されるところが違うのです。
けれども沙織里のように極限状態に追い込まれた人間を演じるならば、見た目の説得力も必要。彼女の毛髪の一本にまで、演技者としての石原さんの姿勢が表れています。もちろん、この姿勢が感じられ、見ていて心配になるのは彼女の外見だけではありません。内面だってそうです。
沙織里は非常に苦しい状況に置かれています。娘に関するほんのちょっとした情報が掴めただけで表情は生気を取り戻し、それがデマだったと分かると再び心がどこかへと消えていく。SNSなどによる世間の声に対しても、励まされたり、激昂したりする。感情の起伏がかなり激しいのです。
沙織里の心の状態が限界に達して過呼吸を起こしてしまうシーンなどは、誰もが目を背けたくなるものだと思います。それほどまでに生々しい演技で、シーン(=状況)を作り出しています。どこを切り取っても石原さんは、沙織里というひとりの女性として生きているのです。そこには一切の隙もありません。
これらの演技……いえ、役を生きる姿により、石原さんの真価を私たちは知ることになるはず。『ミッシング』は今後の彼女の俳優としてのキャリアに大きく関わる重要作だと断言できる作品です。本作が正当に受け入れられることで、エンターテインメント界にも少なからず影響を与えるでのはないかと筆者は思います。
誰だって人間
これは切実な問題を扱った作品であり、いくら映画とはいえ、「えぐられる」などといった安易な言葉では語ることのできない域にあるものです。
この『ミッシング』という作品が訴えているのは、他者に対する優しさと想像力の重要性だと思います。娘を探す母も、彼女を面白がったり批判したりする人々も、誰だって人間。ほんのちょっとしたことで立場は変わります。
本作が描く世界は、いまの社会の縮図だともいえる。あなたはどの立場にある登場人物に、自分自身を重ねるでしょうか。
※吉田恵輔監督の吉はつちよしが正式表記
◆文筆家・折田侑駿さん
1990年生まれ。映画や演劇、俳優、文学、服飾、酒場など幅広くカバーし、映画の劇場パンフレットに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。https://twitter.com/yshun