来年、デビュー55周年を迎える作詞家の松本隆さん(75才)が手がけた作品は2100曲を超える。松田聖子さんの「赤いスイートピー」、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」、竹内まりやさんの「September」……時代を彩る名曲は数えきれず、題名を聞くだけで思わず口ずさみたくなる人もいるだろう。
1970年代後半から1980年代の歌謡界を牽引し、昭和と平成、そして令和の音楽シーンにも多大な影響を与える松本さん。その音楽界のレジェンドが「神様の贈り物」と絶賛する歌手がいる。1982年にシャンソニエの殿堂「銀巴里」(東京・銀座)でプロ活動をスタートして以来、40年以上に渡ってシャンソンやポップスを歌い続ける歌手のクミコさん(70才)だ。
12月3日からはじまるクミコさんのコンサート 「クミコ 70’s Anniversary 有楽町の4Days」では、最終日のゲストに松本さんを迎え、「言葉と歌」をテーマに台本のないトークを繰り広げる。稀代のヒットメーカーと古希を迎えた歌手はどのようにして巡り合い、共鳴して行ったのか。2人が四半世紀に渡る交流や音楽への思いを女性セブンプラスに語った。
”神様からの贈り物”という感じだった
クミコ:皆さんご存知のように、松本さんはずっと音楽界のメインストリームにいらした方。知り合った当時、私は45歳でライブハウスを中心に歌っていた、いわば無名の歌手でした。松本さんのような方がニッチな存在の私を見つけ出し、プロデュースを買って出てくださったことは生涯最大のラッキーな出来事であり、七不思議のひとつです(笑)」
松本:1990年代前半、ぼくは仕事をぐっと減らして、休養しながら古典の勉強をしていた。歌舞伎や文楽、オペラやバレエ……。自分に足りないものを補おうとして、洋の東西を問わずあらゆる古典を見てインプットしようとしたんだ。
バブルの頃は世界中から巨匠と呼ばれる人たちが日本に来ていて、ロシアバレエ団のマイヤ・プリセツカヤがチュチュを着て『瀕死の白鳥』を踊っているのを見たり、梅幸さんや歌右衛門さんの歌舞伎も滑り込みセーフで観ることができた。
一線を離れて、自分はもう”賞味期限切れ”なんじゃないかと悩んだこともある。それでも、氷室京介さんに頼まれて1995年に『魂を抱いてくれ』を書き、1997年にKinKi Kidsに『硝子の少年』を書いたら、大きな手ごたえがあった。さあこれから何をしようかと思ったところに思いがけずに現れたのがクミコさんだった。
クミコ:松本さんの事務所に送られて来るCDが山積みになっていて、たまたま一番上に私のアルバムが置かれていたそうなんです。処分される寸前に松本さんの目に留まって、興味を持ってくださった。
松本:神様からの贈り物という感じでね。僕はロックという若者音楽から出発したけど、作詞を仕事にしてからは、松田聖子や薬師丸ひろ子、斉藤由貴とか、若い女の子の歌をたくさん作って来た。下が14歳から、上は24歳ぐらいかな。ところが、それより上の世代になると自分のレパートリーにはないし、社会的に見ても日本には大人のためのちゃんとした恋の歌が少ない。じゃあ、女の人は24歳ぐらいで終わっちゃうのかというと、そんなことはないわけでしょ。その欠落を誰かが埋めないと成熟した日本文化とは言えないと考えたんだ。ところが、困ったことに肝心の歌い手がいない。
もちろん、ムード歌謡とか決まったジャンルには歌い手がいたけど、僕らがやってるロックやポップスの分野には見当たらないよね。吉田美奈子さんなんか自分で曲を作るから自己完結してる。困ったなと思っていると、気が付いたらクミコさんが目の前に立っていた。
クミコ:急におばさん登場! みたいな(笑)。事務所から電話をいただいた時は本当に驚きましたよ。当時のディレクターから、松本さんにCDを送ると聞いた時は、どうせ無駄だと思ったんです。どこの馬の骨かも分からない私が売り込んだところで、一番遠い存在だった松本さんが興味を持ってくれるはずもないですから。
松本:誰だって、最初は馬の骨だよ(笑)。僕はもともとシャンソンに興味があったし、根っこにサブカルがある。はっぴぃえんどやその前のエイプリル・フールというバンドは新宿の『パニック』というディスコティックで毎晩演奏していたんです。向かって右側に花園神社があって、時々、唐十郎さんの赤テントが来るわけ。一回ぐらい入った記憶があるんだけど、頭の上にロープがあって、麿赤児さんがふんどしをたなびかせて滑車で通り過ぎて行く(笑)。で、向かって左側は天井桟敷。すごい時代でしょう。
渋谷には有名になる前の『東京キッドブラザーズ』があった。後のGAROの大野真澄君がそこにいて、ちょこちょこ話すようになって、小坂忠とバンドをやったりして、要するにぼくは1970年前後のサブカルの人脈から出てきたんです。だから、僕は今でも渋谷や新宿のにおいのするものが好き。クミコさんはそれを持っていたんだよね。
マネジャーが電車のホームで飛び降りる寸前だった
クミコ:松本さんに送ったCDは、それこそおもちゃ箱をひっくり返したようなアルバムで、あがた森魚さんの曲が最初に入っていたり、伊藤咲子さんの『乙女のワルツ』や笠置シヅ子さんの曲や、自分が好きだと思うものを手当たり次第まとめた感じだったんです。お金にはならないことをやって、楽しかったけれど、あのままだったら何も突き詰められないまま一生を終えたかもしれません。松本さんが関わってくださったことで、ようやく歌い手としての核みたいなものが固まって、プロの自覚を持つことができた。それは、すごく大きな転機になったと思います。
最初にプロデュースしてくださったアルバム『AURA』(2000年)は、アクがかなり強い作品ばかりで、歌にも社会に適合できないような人ばかり出てくる(笑)。エロティックがキーワードのひとつだと思いました。
松本:アイドルソングを作っていた頃のぼくは、みんな処女みたいな世界にいたから、その反動が出たのかもしれない(笑)。『硝子の少年』の時は、締め切りギリギリになっても言葉が降りて来なくて、マネジャーが電車のホームで飛び降りる寸前だったけど、大人の歌を歌ってくれる人が現れたおかげで、ほとばしるように言葉が出て来た(笑)。
クミコ:当時の私は40代半ば。エロティックな部分と生きることがすごく密接な距離にあったし、刺激的ですごく面白かった。何より聖子ちゃんの歌を書いている人がこんな詞を書くの? みたいな驚きが新鮮でした。
松本:気づいている人がいるかは分からないけど、聖子にも”隠れエロティック”みたいな詞はいくつか書いているんだよ。経済的には昔の曲が支えてくれるので、クミコさんのアルバムでは、好きなことを好きなようにやりたいようにやらせてもらった。
若い頃は一晩に6曲書いたこともあるけど、今のペースは一年に一曲くらいじゃないかな。アルバムに関しては、この20年くらいクミコさんにしか書いてない。
昔、仕事した人たちから頼まれることもあるけど、非常に書きにくいんだよね。向こうは還暦ぐらいで、僕は古希。全盛期の自分に敵わないのことは分かっているから、友情のためにもやらない方がいいなと思って。