「親は大事にしなさい」「きょうだいだからしょうがない」……いまだ日本に根強く残る血縁主義。しかし、それが負担になり、悪影響をもたらしているようなら「絶縁」を考えてもいい。家族と絶縁して、ようやく自分の道を歩み始めることができたという人が、苦悩や葛藤、喜びを明かす。
両親にとって私は何でも言うことを聞く“ペット”
「言うことを聞けないなら椿ちゃんを置いて、海外で暮らすしかないね」
「お行儀の悪い子はうちにはいりません」
自我が芽生え始めるイヤイヤ期を迎えた1才半~2才の頃から、漫画家の尾添椿さんは両親にそう言われ続けた。
「両親にとって私は何でも言うことを聞く“ペット”でした。敬語を使わないと父が怒鳴るので人と話すのが怖くなり幼稚園でいじめられ、母の言葉に従わないと“椿は家に置いていく”と突き放され、本当にひとりになったらどうしようと怖くなって夜眠れませんでした。
体調不良を訴えても放置され、ストレスで自分の毛を抜く抜毛症にもなりました」(尾添さん・以下同)
子供の頃から絵を描くことが、つらい現実から逃れられる唯一の手段だった尾添さん。しかし、あるとき母が勝手に尾添さんの机の引き出しを開けて大切な作品を覗き見た。
「初めてクラスメートにほめられた大切な作品を勝手に見られて本気で怒ったら、親は“お金をあげるから許して”と笑いながら言いました。そのとき、“この親はおかしい”と確信しました」
中学生のときには不眠症が悪化し、親に黙って受診した内科で処方された睡眠薬をのんでいた。それに気づいた親は、「睡眠薬をのむくらいなら酒を飲んで寝ろ」と言い、毎晩酒で寝かしつけられる状態が続いたこともある。
絶縁しないと意図が伝わらないと覚悟
高校卒業後は跡取りをつくることを親に期待され、進学も就職も止められ家にとどまったが、メンタルクリニックの心理士のすすめもあり、荷物をまとめて逃げるように家を出た。実力行使に出れば親もわかってくれると淡い期待を抱いていたのだ──しかしそれは間違いだった。
「家出後、一度だけカフェで会った父から、反省の言葉を口にして“ごめんなさい。許してください”と書かれた母の手紙とりんご入りプリンの入った袋を手渡されました。
でも私、高校生のときにりんごアレルギーを発症して、のたうち回ったんです。親はそれを見ていたはずなのに……娘のアレルギーを忘れるなんて信じられなかった。カフェで会うまではただ距離を置けばいいと思っていたけれど、絶縁しないと私の意図が伝わらないのだと覚悟を決めました」
意を決した尾添さんが行ったのは「住民票の閲覧制限」と、子が親の戸籍から抜ける「分籍」だった。
「家庭内暴力やストーカー加害者に現住所を知られないよう、住民票は閲覧を制限できます。私の場合、警察の生活安全課に相談し、支援措置申請書を市役所に提出しました。すると、2週間後に通知書が届いて閲覧制限が決まった。
血縁者は戸籍が同じだと子供の住所を調べられるので、戸籍謄本と印鑑、身分証明書などを持って市役所で分籍の届け出もしました。これで親は私の住所を追えなくなりました」
家族の問題を解決するには「ロールモデルへの執着を手放す」こと
一度分籍したら元の戸籍には戻れない……退路を断って手に入れた生活は、尾添さんに大きな喜びをもたらした。
「好きなものを自由に食べられる、好きな服を着られる、好きな時間に遊べることがうれしく、家に人がいないのは最高です。何より、小さい頃から私の支えだった絵を描くことを続けられてうれしい。それまでは親に愛されているという期待が自己肯定感の一部でしたが、いまは親から愛されなくても自分で経験を積み重ねることで、自己肯定感を得ることができています」
家族の問題を解決するうえで大切なのは、「ロールモデルへの執着を手放す」ことだと尾添さんは語る。
「“家族三代で暮らすのが理想”のようなロールモデルをやんわり強制されると苦しくなります。大昔に描かれた理想の家族像に自分を当てはめる必要はなく、前例がないなら手本になればいいんです」
【プロフィール】
尾添椿(おぞえ・つばき)/漫画家・イラストレーター。1993年、東京都生まれ。両親と同じ戸籍から分籍し絶縁するまでを綴った『生きるために毒親から逃げました。』などコミックエッセイの刊行多数。
※女性セブン2024年12月12日号