
救急搬送から45日、記憶にも記録にも残る名司会者・みのもんたさんがこの世を去った。誰よりも働き、誰よりもよく飲んだ豪快な生き様はまさに“帝王”。最愛の妻を失った晩年、彼が愛した「最後の恋人」の告白とともに、その人生を振り返る。【前後編の前編】
肉の誤飲で窒息状態になり一時、意識不明に
神奈川県川崎市の高台に建つ日蓮宗・安立寺。3月1日に他界したみのもんたさん(本名・御法川法男、享年80)の先祖代々の墓は、鎌倉時代から続く古刹の境内に佇んでいる。
「努力」「運」「健康」
墓石に刻まれた3つの言葉は、みのさんが生前、もっとも大切にしていた人生のテーマだ。その言葉通り、みのさんは若い頃から努力を重ね、アナウンサー、司会者として活躍し、お茶の間の人気を博した。晩年は健康に留意しながらさまざまな病と闘っていたという。
「ご実家が日蓮宗の檀家で、みのさんは寺の総代を務めていました。生前、困ったことが起きるとよく『南無妙法蓮華経』とお題目を唱えていたものです。四季折々の風景が美しい寺の風情を気に入っていて、生前からファンや関係者に『自分が死んだら、菩提寺に会いに来てほしい』と呼びかけていました」(みのさんの知人)

2020年にパーキンソン病の発症を公表して以来、みのさんはメディアの仕事から遠ざかっていた。同時期に家業の水道メーター会社「ニッコク」の社長の座を社員に譲り、会長として悠々自適なセミリタイア生活を送っていた。異変が起きたのは今年1月16日。東京・港区にある行きつけの焼き肉店で夕食をとっていたときのことだった。
「食事中に喉に食べ物を詰まらせたみのさんが、息ができずに苦しそうにしていたんです。牛タンの大きな肉片をほとんど噛まずに飲み込んでしまったようで、お連れのかたが必死に背中をさすっていました。店内が騒然となり、すぐに救急車が呼ばれました」(目撃者)
肉の誤飲で窒息状態になったみのさんは、一時、意識不明の状態に陥ったという。関係者によれば、都内の大学病院に搬送され、重症患者として集中治療室に入院。そのまま意識が戻ることはなかった。
「あの日、みのさんから焼き肉を食べに行くことは聞いていました」
本誌『女性セブン』が救急搬送を報じた際、そう語っていたのは、かつてみのさんと事実婚状態にあると報じられたAさんだ。彼女は、救急搬送された日もみのさんと連絡を取り合っていたという。
「電話をかけたときに(みのさんが)『いま、食事中です』と言ったのが最後だったと思います。その後、連絡がつかなくなり、携帯に電源が入っていない状態が続いていました。安否がわからず、いったい何があったのだろうと……。親しい人の中でも私は普段から連絡を取り合っていた方だと思います。パーキンソン病は喉の筋肉も弱くなってしまうことがあり、いままでにも食事を詰まらせることがよくあったので、心配で心配で……」(Aさん)
“孤独死だけはしたくない”
みのさんの“最後の恋人”といわれたAさんの存在が『週刊文春』に報じられたのは2020年12月。夜は銀座のクラブで働き、昼は介護の資格を取るための学校に通っていたAさんのために、みのさんは彼女の店に通い詰め、私生活をサポートしていたという。
「2012年に最愛の妻、靖子さんをがんで亡くして以来、みのさんの生活は一変しました。1970年に結婚してからというもの、食生活やスケジュールの管理、3人の子供の育児や母親の介護まで、すべてを靖子さんに任せていたみのさんは、“人生の同志”を失って抜け殻のようになってしまったんです。『つらくて悲しくて寂しい』と嘆き、虚無感に襲われ、すべてを終わりにしたいと考えたこともあったといいます。
その寂しさを埋めてくれたのが行きつけのクラブで出会ったAさんでした。彼女の優しい人柄に感激したみのさんは、クラブ通いを再開し、活力を取り戻したようにも見えました」(前出・みのさんの知人)

みのさんは、Aさんが自分のために弁当を手作りしてくれることをうれしそうに周囲に語り、関係性を隠そうともしなかった。ふたりはいつしかプライベートでもデートを重ねるようになったという。みのさんは自著『終活なんか、するもんか』(2021年、朝日出版社)で彼女との関係をこう記している。
《三回忌を過ぎたあたりから、周囲からは「そろそろ再婚したらどう?」と言われるようになりました。まあ、それも悪くないだろうとは思います。きっと妻も、「そのほうが私も安心だわ」と背中を押してくれることでしょう。そして、妻の七回忌を過ぎた頃より、縁あって、大変僕によくしてくれる素敵な女性とときどき食事デートを楽しんでいます》
Aさんとは40才近く年が離れていたが、みのさんは“老いらくの恋”と言われることに激怒。年齢差を気にかけることはなかった。
「男性も女性も年を重ねる分だけ、年齢に合った魅力が出るというのがみのさんの考え方。衰えから目を背けるために髪を染めたり、整形することには否定的でした。あるがままの自分でいることこそが、みのさんの目指す“おしゃれ”だったといいます」(芸能関係者)
恋愛に関しても同様で、前出の自著にも《幾つになっても好きな異性ができて当然です。恋とは、生きるエネルギーそのもの。それがプラトニックでもいいのです》と綴っていた。
みのさんが亡くなった後に2人組の空き巣が入ったことがニュースにもなった神奈川県鎌倉市の自宅は、敷地面積3万平方メートル超、地下1階、地上2階建ての大豪邸。妻を亡くしたみのさんがひとりで過ごすには広すぎた。
「朝起きると、リハビリを兼ねて家の中を歩き回るのが日課になっていましたが、それだけでも小一時間はかかったそうです。日中はお手伝いさんが来るものの、夜はひとりで過ごすため倒れたりしたら一大事。階段を上り下りするときは慎重に歩を進め、風呂場では常に座ってシャワーを浴びていたそうです」(前出・みのさんの知人)
“孤独死だけはしたくない”と語っていたみのさんは、介護の資格を持つAさんと一緒になることを一時は本気で考えていたという。周囲の反対もあって再婚は断念したが、別れ際にニッコクが所有していた販売価格1億5000万円のマンションをAさんに気前よくプレゼント。みのさん流のけじめのつけ方だった。
「自分に尽くしてくれた女性への贈り物としては『決して高いとは思わない』と豪語していました。よほどAさんのことが好きだったのでしょう。彼女が別の男性と結婚した後も、みのさんは頻繁に彼女に電話をかけ、友達としての関係は続いていたようです」(前出・芸能関係者)
みのさんの入院後は、詳しい状況を把握できず、本誌に不安を漏らしていたAさん。彼女の「無事でいてほしい」という悲痛な願いは叶わず、救急搬送から45日後にみのさんは帰らぬ人となった。Aさんは本誌に「みのさんには本当によくしてもらって……ずっといい関係でいてくれました。感謝しかありません」としみじみと語った。
(後編へ続く)
※女性セブン2025年3月20日号