【追悼・みのもんたさん】多くのレギュラー番組を抱えながら、家業の水道メーター会社では社長として辣腕を振るう「医者に止められても働かずにはいられない」と話していた

名司会者として活躍し、お茶の間の人気を博したみのもんたさん(享年80)が3月1日に亡くなった。最近はメディア露出も減り、セミリタイア生活をしていたみのさんは、積極的に生前整理をしていたという。【前後編の後編】
2020年にパーキンソン病の発症を公表して以来、みのさんはメディアの仕事から遠ざかっていた。同時期に家業の水道メーター会社「ニッコク」の社長の座を社員に譲り、会長として悠々自適なセミリタイア生活を送っていた。
積極的に行っていた“生前整理”
2012年に最愛の妻・靖子さんを亡くしたみのさんの寂しさを埋めたのが、“最後の恋人”といわれたAさんだ。夜は銀座のクラブで働き、昼は介護の資格を取るための学校に通っていたAさんのために、みのさんは彼女の店に通い詰め、私生活をサポートしていた。“孤独死だけはしたくない”と語っていたみのさんは、介護の資格を持つAさんと一緒になることを一時は本気で考えていたという。周囲の反対もあって再婚は断念したが、別れ際にニッコクが所有していた販売価格1億5000万円のマンションをAさんに気前よくプレゼント。みのさん流のけじめのつけ方だった。
「みのさんは終活という言葉を『生きるエネルギーが奪われる』と言って嫌う一方で、“生前整理”は積極的に行っていました。Aさんにマンションを贈与したのもその一環だったのでしょう。鎌倉や都内に所有する不動産も、後で揉めることがないようにと3人のお子さんたちの名義に書き換えていました」(芸能関係者)

一家の知人が語る。
「靖子さんはよく『うちの人はヤンチャな次男がかわいくて仕方ないみたい』と話していましたが、みのさんがいちばん気にかけていたのは2013年9月に窃盗未遂容疑で逮捕(起訴猶予処分)された次男のことでした。事件が起きたときも外では『大バカ者』と言いながら、身内には『息子は悪くない』とかばっていたんです。家業の水道メーターの会社も彼に継いでもらいたいと考えていたようです」
ニッコクは、民間調査会社のデータによれば年間15億円以上の売り上げがある優良企業。現在の社長はみのさんが指名した元社員だが、みのさんは生前から、次男が社長に就任する筋道を描いていた。
「今日が人生でいちばん若い」
宮城県出身のみのさんの父が前身の「日国工業」を設立したのは1940年。当時は水道用の鉛の管を作り、鉱山や鉄道関係の仕事を手がける会社だったという。同社関係者が語る。
「終戦後に高度な製造技術が評価されるようになり、最盛期には600人近い社員を抱えていたこともあったそうです。みのさんが入社したのは、1979年に文化放送を退社した後。フリーになって、芸能界の仕事を干されていた頃に先代が常務のポストを用意したと聞いています。
営業担当としてトラックで全国を走り回り、10年近く現場での下積みを経て社長に就任。会社では非常に仕事に厳しい人で、社員にとってはみのさんがタレントという意識はほとんどなかったですね」
芸能界で“視聴率男”と呼ばれ、最盛期には『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ系)をはじめ、週に16本ものレギュラー番組を抱えていたみのさん。会社でも辣腕を振るい、億単位の投資案件を牽引。さらに夜になると銀座や、名古屋の繁華街・錦に繰り出し、平均睡眠時間は約3時間という超人的な働きぶりだった。

「若い頃に干された経験があるから、仕事があることが何よりの喜びだったといいます。頼まれた仕事は断らないのが信条で『医者に止められても働かずにはいられない』と口癖のように話していました」(前出・ニッコク関係者)
同社の事務所には、みのさんが敬愛した父の言葉が標語として飾られている。
《朝が来た 新しい朝だ 自分のための朝だ》
みのさんは、朝が来るたびに「今日が人生でいちばん若い日じゃないか」と考えていたという。
「還暦を過ぎても、古希を過ぎても、仕事に対する意欲は衰えを知りませんでした。お父さんは86才までニッコクで働き、92才で亡くなりましたが、みのさんいわく『最後まで芸者さんの手を握ったら離さなかった』のだとか。みのさんも同じ年齢まで生きることを目標にしていました。80代、90代になっても新しい出会いがあることを期待し、『わくわくするね』と話していただけに、早すぎる訃報が残念でなりません」(みのさんの知人)
芸能界でも銀座でも“帝王”と呼ばれたみのさん。酒と女性を愛し、多くの人に愛された粋でおしゃれな人だった。
※女性セブン2025年3月20日号