
子供の手が離れ、自由な時間が再びできるとき、気の置けない女友達が横にいればどれほど楽しいだろう。萬田久子さんと神津はづきさんはニューヨークで出会ってから40年以上。家族ぐるみの付き合いをしてきた2人だからこそ語れる互いの親のこと、子供のこと、これからのこと。たっぷりとお届けします。【第1回】
親友として仲良くなるのに理由はいらない
萬田:はーちゃん(はづきさんの愛称)と、仕事でこういう対談をするのは初めてよね。
神津:萬田さんと仕事をするのが何十年かぶりだもの。最初に一緒の仕事をしたのは、2時間ドラマで近藤正臣さんが出ていらして。
萬田:なんだろう。サスペンス?
神津:サスペンスよ。それから旅番組でも一緒だったんじゃない?
萬田:行ったかも。仕事のことはおぼろげだけど(笑い)、初めて会ったときにはーちゃんが住んでいたお家のことは私、よく覚えているのよ。
神津:私が日本の高校を卒業してすぐニューヨークへ留学して、そのときのアパートに訪ねてきてくれた。
萬田:そうそう。それまで留学していたカンナちゃん(はづきさんの姉・神津カンナさん)のお部屋を引き継いで住んでいたのよね。メゾネットで、うらやましかったな。
神津:ミス・ユニバース日本代表の萬田さんがデビューして、雑誌の撮影でニューヨークへ来たのよね。カメラマンの立木義浩さんと私がたまたま知り合いで、現場へお邪魔したのが出会いとなって。
萬田:私は23歳の初め、はーちゃんは18歳の学生で。今はお互い60代だから、綾小路きみまろさんの“あれから40年!”じゃないけど、もうそれぐらい長い仲なのよね。
神津:さっきもお互いメイクしながら、“なんで私たちが仲良くなったのか、わからないよね”なんて話してたんです(笑い)。
萬田:親友として仲良くなるのに理由はないよね、と実感を込めてね。
神津:私が“自分より綺麗じゃなかったからでしょう?”と振ったら“あぁ、そうか”って(笑い)。
萬田:文字にするとひどいこと言ってるみたいだけど、はーちゃんと私って、いつもそういう掛け合いなんです(笑い)。

〈萬田久子さんは1958年生まれ。短大在学中の1978年にミス・ユニバース日本代表に選ばれたことをきっかけに芸能界へ進み、1980年に立木義浩さんのお母様がモデルとなったNHK連続テレビ小説『なっちゃんの写真館』で女優デビュー。同年に雑誌『Free』の撮影で訪れたニューヨークで、同地に留学中の神津はづきさんと出会った。以後、数々の大河ドラマや連続テレビ小説、映画など話題作に出演。大人世代のファッションアイコンとして絶大な支持を得て、昨年10月に『萬田久子 オトナのお洒落術』を発売し、ベストセラーになっている。
神津はづきさんは1962年生まれ。作曲家の神津善行さんを父に、2023年の大晦日に89歳で亡くなった女優の中村メイコさんを母に持ち、姉はエッセイストで作家のカンナさん、弟は洋画家の善之介さんと芸能一家に育つ。今年1月、亡き母との“不条理とドタバタ”な日々を綴った初著作『ママはいつもつけまつげ』を上梓した。〉
ママはいつも“萬田さんは今日来ないの?”と
神津:3年留学して帰国すると、私は父の考えで母の後を継いで女優の道へ進むことになった。両親の事務所にいたら萬田さんのマネジャーさんが違う選択肢もあるよと、同じ事務所へ誘ってくれたのよね。そのご縁でバーター(抱き合わせ出演)として一緒の仕事をもらったりして。
萬田:バーターといっても私もまだ新人で、現場でちょっと接触があったかも程度よ。プライベートでだんだん仲が深まった感じよね。
神津:萬田さんは恋愛志向だったし。“どうして女友達とごはんを食べなきゃいけないの?”っていうくらい、いつも忙しかったもの。
萬田:ふふっ、そうかもね。今も優先順位は男性の方が高いかも。私は男の人への尊敬というか、自然に三歩下がれるくらいの男性じゃないと恋愛としては惹かれない。
神津:こう見えて萬田さん、古風で、好きな男性に尽くそうとする健気さもあるんです(笑い)。
萬田:アイロンがけをパートナーから頼まれた話ね(苦笑い)。もう息子がいたから29歳か30歳の頃かな。彼が“今からゴルフだからこのパンツにアイロンをかけて”と、急に朝言ってきたの。
神津:ほかにもたくさんあるのにシワシワのパンツをはきたいって。
萬田:そう! 朝の忙しいときに、私もゴルフに出掛ける準備をしているのに!と思ったら自然に涙が出てきたの。それ以来ずっと“アイロンをかけてと言ったら泣かれた”と言われ続けましたけど、二度と頼まれなかった。『女性セブン』の読者の皆さん、1回泣くのは勝ちよ(笑い)。
神津:でも……土鍋のごはんがやわらかく炊けちゃうって泣いていた時期もあったと思う。
萬田:えっ、それ覚えてないわ。
神津:私に電話してきたの。ごはんがやわらかいと言って彼が食べてくれない、悔しい、って。“だったらパンを食べれば?”なんて言いそうなキャラに思われるかもしれないけれど、萬田さんは絶対に言わない。
萬田:好きな相手にはそうかもね。でもどうでもいい相手には……。
神津:パンを出しちゃう?(笑い) 萬田さんは私よりちょっとだけお姉さんだから、生き方のお手本としていつも背中を見てきた。恋愛では惚れた相手にまっすぐで、かいがいしく尽くす人。“男の人は風紀委員なのよ”も萬田さんの格言よね。
萬田:女性にとって男性は風紀委員であり美化委員。好きな人に指摘されるとモチベーションになるわよ。
神津:そのために男性の存在があるんだって。萬田さんとの会話が夫婦関係を見直すきっかけにもなっている。私も家庭でがまんするところはしなくちゃいけないかな、なんて。
萬田:自分の男性観を分析すると……。私の両親はそんなに仲のいい夫婦ではなかったような気がします。ロマンチストな父と現実的な母がよくケンカをしていたの。このふたりはなんで結婚したんだろうと子供心に疑問だった。だから「尊敬して好き」ではない男性と一緒にいる意味はないと根っこで考えているし、そう思える相手が30年来のベストパートナーにもなった。はーちゃんの『ママはいつもつけまつげ』を読ませてもらっても、生活を共にするパートナーとは尊敬と信頼がないと成り立たないと、ご両親のお話から感じたもの。
神津:萬田さんはどんなにお酒を飲んでいてもリッキーさん(萬田さんのパートナーの愛称)が帰ってくると、“お茶漬け食べますか”なんて。明太子を器に品良く盛って、途端にいそいそお茶漬けセットを出したりして。
萬田:見た目が綺麗な方がおいしそうじゃない。だから着物の上に割烹着をよく着ていたの。酔っていても真っ白な割烹着姿はかいがいしく見えると思ったから(笑い)。
〈萬田さんは1987年、アパレル会社社長との間に長男を出産。長男を交えた3人で同居し、事実婚を貫いた。パートナーの病により、2011年に死別している。〉
神津:ベロベロなのに、よくできるなと感心していたんだ。酔っぱらっているのに酔っぱらっていないように見せる力量たるや、もう。
萬田:変身ぶりは、はーちゃんのママ、メイコさんと似ているかも。
神津:そこは天下一っていうか、2人ともうまいことやるなって。
萬田:女優はみんなそうじゃない? メイコさんもお酒が好きで80歳のお誕生日会でもたくさん飲まれていたのをよ~く覚えてます。
神津:50代まではウイスキーを1日1本、89歳で亡くなるその日まで2日で1本飲んでいた人だから。周りでは萬田さんがいちばんお酒が強かったから、ママはいつも“あら、萬田さんは今日来ないの?”って(笑い)。
萬田:そうね。メイコさんは私を見るとよく誘ってくださって。最後にお会いしたときにも“今度はいつ飲む?”って。今でも留守電にメイコさんのメッセージが残っているもの。
神津:時々ママに電話して、おしゃべりしてくれていたよね。ありがとう。ママは変な派手な帽子や服が出てくるとすぐに萬田さんへ送っちゃうから、ママ、考えて送ろうよって。
萬田:全然変じゃないのよ。面白いお洋服とかたくさんいただいた。
神津:私も萬田さんのお母さんに手作りの小物をいただいているの。
萬田:そうだったの? 母は洋裁を仕事にしていたから、幼い頃から娘に服や小物を縫ってくれてたけど。
神津:お化粧の筆を入れてクルクル巻く布のケースを萬田さんがくれて、それを見たお母さんが“久子のお古じゃなくて縫ったるわ”って。萬田さんもウチへ遊びに来てくれたけど、私も時々、萬田さんがいなくてもお母さんに会いにお家へ行っていたな。
萬田:大阪のおばちゃんというか、面白い人だったからね(笑い)。女優の家ってなんとなく敷居が高くてちょっと行きづらいものだけれど、“あのお母さんがいるなら”とみんな気軽に来てくれた。
神津:新居へ遊びに行ったらお母さんが中を案内したるわって、大阪のノリツッコミでむっちゃ面白くて私、大好きだった。
『萬田久子 オトナのお洒落術』萬田久子・著/講談社/1980円
女性の憧れのファッションアイコンとして注目を集めてきた萬田さんが、独自のセンスで私服をセルフスタイリングしたファッションブック。年齢にとらわれず自由な発想でお洒落を楽しむ心やライフスタイルについても綴られ、萬田さんの人生の流儀が伝わってくる。
『ママはいつもつけまつげ 母・中村メイコとドタバタ喜劇』神津はづき・著/小学館/1870円
女優・中村メイコさんが亡くなって1年、次女のはづきさんが家庭でのメイコさんの実像をユーモアたっぷりに綴った爆笑回想録。「家でも女優だった」メイコさんと家族の日々はまさにドタバタ喜劇。母への愛が詰まったレクイエム。
構成/渡部美也 撮影/浅野剛 ヘアメイク/黒田啓蔵
※女性セブン2025年4月10日号