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【デビュー55周年】野口五郎が語る人生を変えた“15才の夏の2日間”と西城秀樹さんとの友情「彼は変なプライドがなくて正直。人間性がすばらしい」

今年の5月1日でデビュー55周年を迎える歌手の野口五郎
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歌手・野口五郎(69才)は、今年の5月1日でデビュー55周年を迎える。「歌手」や「アイドル」などといった言葉ではくくれない、その活動の根底にあるものとは何か。野口五郎に話を聞いた──。【前後編の前編】

「ぼくは音楽オタクで、妄想家なんですよ(笑い)」

デビュー55周年の軌跡を振り返る過程で、野口は自身をそう形容した。確かに、音楽オタクの萌芽は幼少時からあった。

保育園児の頃には、すでに家にあったウクレレを独学で弾き始め、小学1年生でギターを手にした野口少年は、職員室で先生を前に『影を慕いて』や『リンゴ追分』を弾き語り。

「4年生になるとエレキギターに夢中になり、寺内タケシさんが弾く『津軽じょんがら節』やザ・ベンチャーズを、テレビを見ながら“完コピ”。ビデオのない時代ですから、見逃したら次の出演まで見られない。すごい集中力でした」(野口・以下同)

小学6年生の野口(右前)。7才年上の兄・寛さん(左)のバンドをバックに歌う。すでに「ちびっこのど自慢荒らし」で知られていた
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演歌デビューの機会を得て、中学2年生で上京。

「ところが、変声期でデビューが棚上げとなり、歌のレッスンを続けながら、大学生のアマチュアバンドに加入。約2年間、ローリング・ストーンズなど、当時、最先端の洋楽をたっぷりと覚えました。

このときも、元来のオタク気質が炸裂し、気がつくと14才のぼくがバンドのリーダーになり、『何でできないんだ!』と年上のメンバーを怒っていた(笑い)」

興味を持つと、どんなこともとことん突き詰めたくなる性格は、いまも昔も変わらない。

「『その先を知りたい』というのがぼくの人生のテーマ。思えば、物心ついたときから、ずっとそうなのかな」

上京日の野口と母・伊代子さん(後方)と祖母(左)。上京後、離れて暮らした父が撮影
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郷ひろみと西城秀樹のブロマイドを配り歩いた

1971年、『博多みれん』でデビューするもヒットには至らず、3か月後の8月、ポップス路線に変更して『青いリンゴ』を発表する。

作曲は、『オレンジの雨』や『甘い生活』など、後に100曲以上の作品を共に制作した筒美京平だ。

デビューシングルのジャケット。15才ながらキャバレー回りなど、苦労も多かった
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「8月30日から1週間、お昼の番組のコーナーに出演が決まりました。その初日、夏休みを利用して観覧に来ていた中高生の女の子から『キャーッ』と歓声が上がったんです。『何? 誰のこと?』と他人事のように思っていたら、翌日『キャー』の声が増幅し、会場から出られないくらい女の子に囲まれて……。ぼくの人生が大きく変わった2日間でした」

それは“野口五郎”の名が知れ渡った瞬間だった。

ブレーク直後。『青いリンゴ』のキャンペーンで、女性ファンに囲まれる16才の野口五郎
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「当時は10代のアイドルなんて存在せず、まわりは年上のスターばかり。楽屋は使えず、メイクも着替えもトイレでやっていました。

翌年、同学年の郷ひろみと西城秀樹がデビューすると知ったときは、『やっと仲間が増える!』と喜んで、彼らのブロマイドを配り歩いたほどです(笑い)」

10代にして、音に対するこだわりにはすさまじいものがあった。

『私鉄沿線』を作曲した兄の寛さん(左)。筒美京平との信頼関係も深かったという
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「筒美京平先生、馬飼野康二先生、東海林修先生といった一流のかたがたと音楽を作っていましたからね。京平先生の前でピアノを弾きながら『今度はこんな曲を作ってください』『レコーディングにはこのミュージシャンを使って』なんて指定までしていたんです。

かなり生意気だったと思いますが、すでに録音技術にも興味を持っていたようなオタクのぼくを、先生がたは面白がってくれていたようです(笑い)。

ぼくの曲は音域が広いものが多くて、自分でも調子が悪いと歌えないくらい。後に京平先生に『そりゃそうだよ。五郎ちゃんの曲は、低い部分と高い部分、それぞれ2曲作って1曲にしているんだから』と言われたことがあります。

『甘い生活』ではメロディー部分が空白になっていて、『好きに歌っていいよ』と任せてくれたこともありました」

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