
ニューヨークで出会ってから40年来の親友である、萬田久子さんと神津はづきさん。家族ぐるみの付き合いをしてきた2人が、お互いの親のこと、子供のこと、これからのことについて語り合う。【第2回。第1回を読む】
萬田久子さんは1958年生まれ。短大在学中の1978年にミス・ユニバース日本代表に選ばれたことをきっかけに芸能界へ進み、1980年に立木義浩さんのお母様がモデルとなったNHK連続テレビ小説『なっちゃんの写真館』で女優デビュー。同年に雑誌『Free』の撮影で訪れたニューヨークで、同地に留学中の神津はづきさんと出会った。以後、数々の大河ドラマや連続テレビ小説、映画など話題作に出演。大人世代のファッションアイコンとして絶大な支持を得て、昨年10月に『萬田久子 オトナのお洒落術』を発売し、ベストセラーになっている。
1987年、アパレル会社社長との間に長男を出産。長男を交えた3人で同居し、事実婚を貫いた。パートナーの病により、2011年に死別している。
神津はづきさんは1962年生まれ。作曲家の神津善行さんを父に、2023年の大晦日に89歳で亡くなった女優の中村メイコさんを母に持ち、姉はエッセイストで作家のカンナさん、弟は洋画家の善之介さんと芸能一家に育つ。今年1月、亡き母との“不条理とドタバタ”な日々を綴った初著作『ママはいつもつけまつげ』を上梓した。
子供第一のいい母でいる必要はないのでは?
萬田:(母親が)愉快な人だったというのはこうして、亡くなった後から聞きますね。ある晩、リッキーとパーティーに呼ばれて母親がひとり残されてかわいそうだったから、母親とも仲良かったヘアメイクの子に家に残ってもらったことがあったの。母親には“彼女にお小遣いをあげてね”と伝えて出かけたら、後から彼女が“萬田さんだから言えるんだけど……”って。何かと思ったら、バァバから1万円もらったんだけど“5000円おつりちょうだい”って、言われたんですって(苦笑い)。
神津:お母さんてば、かわいい。
萬田:かわいいっちゃあかわいいけどさ、娘や女優としたらちょっと恥ずかしいわよ。だからウイットに富んだお茶目なメイコさんとは全然重ならないんだけど、ウチの母親はまた別の種類の面白さがある人だったから、『ママはいつもつけまつげ』の第2弾、『バァバはいつも○○』として、ぜひ小学館で書かせてくださいな(笑い)。
神津:でも、あのバァバがいたから、この萬田さんがいるというのは、私としてはすごくストーンと腑に落ちる。
萬田:うん、それは大きいと思う。
神津:お高くとまらずフレンドリーで“えっ、こんなに砕けた人なの?”という気さくさは、完全にあのお母さん、バァバ譲りだと思うんだ。
萬田:そうかもね。素は隠し切れないし、“だったらオープンにした方が楽しいんじゃない?”という生き方を教えてくれた気がする。
神津:嫌だけど、母と娘ってなぜだか似てきちゃうのよね。私も絶対にママみたいにはならないぞと思ってきたのに、近頃どうも、自分が“小メイコ”化している気がして。
萬田:はーちゃん、小メイコっぽいもの。指の形がママとそっくりだし、動作やちょっとした所作がメイコさんなのよ。
神津:ね! 長女のカンナは泣きながら真剣に母とケンカしたりしていたけど、次女は傍観者的でケンカすることもなかったし、生きているときはその存在が常に面倒くさい人だったから、あまりちゃんと母を捉えたことがなかったの。でも亡くなって、この本を書きながらあれこれ気づかされた。
たとえば「人生とは」「女とは」とか、母親として娘に何かを教えてくれたことはないの。いつも酔っ払いだったから(笑い)。ただ、母がいてくれただけで、いつの間にか学んでいた、身についたことがこんなにもあったのかって。だからね、私にも萬田さんにも息子がいるけど、母親なんて立派じゃなくてもいい。いるだけでいいんだわって、ママとの日々を思い返してわかったのよ。

〈はづきさんは『ママはいつもつけまつげ』にこう綴っている。
《母が亡くなって気づいたことは、母親役を完璧に熟す母ってつまんない母親なのではないかということと、母親という役柄にはさして興味がないのに彼女なりに母親をやっていたことが人間ぽいなぁ、ということ。母はその日の気分で山岡久乃風だの池内淳子風だのいろんな母を演ってはみたものの、結局いつも中村メイコだった。中村メイコが母だったのだ。
もしも母が中村メイコをないがしろにして完璧な母親役を演じていたとしても、子供はそんなことで立派には育たなかっただろう》〉
58歳の母が大阪からニューヨークにやってきた
萬田:私がやっぱり母親の存在って大きいなと身に沁みたのは、ニューヨークで出産した息子の子守りのために、英語もしゃべれない母親がアメリカまで来てくれたときかな。
神津:考えたらすごいことよね。
萬田:私が29歳で息子を出産した当時、母親はパートナーとの関係にも出産にも猛反対で“もう勝手にしい”と連絡も途絶えていて。だけど、生後まもない息子を置いて2週間ほど日本へ帰ることになったら母親の顔が浮かんで、“申し訳ないけど、こっちへ来てくれない?”って電話をして頼ったの。そうしたら母は58歳で初めてパスポートを取って、すぐ大阪からやって来てくれた。
神津:それも、おひとりで。
萬田:JFK空港までは迎えに行きましたよ。ところが待てど暮らせど母親が出てこない。どうしたのか心配していたら、お食い初め用に日本から持ち込んだ笹がイミグレーション(入国審査)で大麻に間違われて、どこかへ連れて行かれてたんだって(笑い)。
その笹でお食い初めした息子の写真が残っていますけど、バァバにはあのへんから頭が上がらなくなった。
神津:私も幼い頃から祖母が身近にいる環境で育ったけれど、近頃はおじいちゃんやおばあちゃんと住まなくなって、核家族で友達みたいな仲良し親子がいいような風潮もあるでしょう。私たちの感覚よりも近い間柄で、親が子のことを知りすぎているんじゃないかと感じる。
萬田:へぇ~、最近はそうなの?
神津:恋愛事情も学校で今日あったことも、親がみんな知っている。批判したいのではなく“いるだけでいい”という関係性になれない親子が多いような気がして。私も萬田さんも、子供第一のいい母でいようなんて気はあまりないでしょう?
萬田:災害とか命に危険が迫るような事態が起きたら弱い方を助けるけど、私はどちらかというと優先順位は子供より彼でしたね。
神津:ウチの母も“パパ、パパ”とは言わないけど、そこが軸で子供なんて付属品というか。でも萬田さんもママも、母親なんてそれでいいのよ。その証に今までちゃんと生きてきたんだから。あのママだっていつもハチャメチャで飲んだくれていても、ちゃんと生きたんだもの。
萬田:ウチは最後に母親と同居することになったけど、リッキーは「もしも久子ちゃんと別れても、お母さんはもらっていくよ」と言ってた。母親の手料理も好んでいたし、慕っていたのね。
神津:とても仲良かったものね。
萬田:母親がリッキーを詠んだ俳句にも、なかなかいいのがあったのよ。
神津:お母さんは短歌や俳句もたしなまれて、遊びに行くと“ちょっと詠んだるか?”って。乙女な甘い恋の句が多かったような気がする。
萬田:母親もある意味ロマンチストだったんでしょうね。昭和7年生まれで戦後に少女時代を過ごして、ロマンチックに生きたくても現実はそうはいかなかったから。雑誌の裏表紙にあるキャラメルの写真に手を伸ばして何度も口に運んでは、食べていたんですって。
神津 食べた気分を味わったのね。
萬田:物がない時代で想像力が豊かだったのよね。はーちゃんの本にメイコさんの引き出しは便箋や葉書など、中原淳一さんの描いた大きな目をした美しい女の子でいっぱいだったとあって、そうだろうなって。少女だったウチの母親も中原さんの世界でときめいていたと思うんだ。
こうしていろいろ話しながら母親を思い出すと、なんかね……。
神津:うん、亡くしてからの方が母親って身近に感じられるものなのね。
『萬田久子 オトナのお洒落術』萬田久子・著/講談社/1980円
女性の憧れのファッションアイコンとして注目を集めてきた萬田さんが、独自のセンスで私服をセルフスタイリングしたファッションブック。年齢にとらわれず自由な発想でお洒落を楽しむ心やライフスタイルについても綴られ、萬田さんの人生の流儀が伝わってくる。
『ママはいつもつけまつげ 母・中村メイコとドタバタ喜劇』神津はづき・著/小学館/1870円
女優・中村メイコさんが亡くなって1年、次女のはづきさんが家庭でのメイコさんの実像をユーモアたっぷりに綴った爆笑回想録。「家でも女優だった」メイコさんと家族の日々はまさにドタバタ喜劇。母への愛が詰まったレクイエム。
構成/渡部美也 撮影/浅野剛 ヘアメイク/黒田啓蔵
※女性セブン2025年4月10日号