
三代続けて俳優の道を選んだ3人は、それぞれの「父子関係」に複雑な事情を抱えていた。三國連太郎さん(享年90)が旅立ってから12年が経過し明らかになったのは、父子だからこそ話せなかった、自身の「ルーツ」──。
「なんで(息子と)遊ばへんの?って聞いたら、三國さんがいらっしゃらなかったから、“育て方がわからない”って、すごい悩んでいたんです……」
4月30日に放送された『ファミリーヒストリー』(NHK)は、俳優の佐藤浩市(64才)をゲストに迎え、佐藤の父である三國さん(本名:佐藤政雄)の波瀾万丈の人生に焦点が当てられた。昭和を代表する名優である三國さんの出生の秘密や、佐藤との父子関係を辿りながら、知られざる家族の歴史が明かされた。
冒頭は、佐藤の40年来の友人である明石家さんま(69才)が目撃した、佐藤と長男で俳優の寛一郎(28才)とのかつての情景だ。
「間近で接していたからこそ、さんまさんには浩市さんと寛一郎さんとの微妙な距離感がわかったのでしょう。その遠因には、浩市さんと三國さんとの複雑な関係性がありました」(芸能関係者)
佐藤と三國さんは、俳優としても親子としても強い影響を与え合った存在だった。だが、「三國さんがいらっしゃらなかった」というさんまの言葉にあるように、決して密度の濃い時間をともにしたわけではなかった。

「浩市さんのお母さんは、三國さんの3度目の結婚相手でした。しかし、浩市さんが小学生のときに離婚しました。三國さんは浩市さんを箱根(神奈川)の十国峠に連れて行き、“ここでおまえと別れる。今日から他人になる”と宣言したといいます。その後、浩市さんは三國さんに対し、ネガティブな感情を抱きながらも、同じ俳優の道へと進みます。後年は雪解けもありましたが、それまでの長い間、父子の間には『確執』があると囁かれていました」(前出・芸能関係者)
1996年公開の映画『美味しんぼ』で、佐藤と三國さんは初共演を果たしたが、会見で互いを「三國さん」「佐藤さん」と呼び合い、俳優論でも対立するなど、佐藤の幼少から積もった遺恨は色濃かった。佐藤が「ぼくと父とは関係ありません」と公に語り、三國さんの存在が重圧だったと明かしたこともあった。