
その“ロック少女”は、まだバブル景気の残り香が漂う1990年代中盤の音楽シーンに彗星のごとく現れた。そこからスターの階段を駆け上がった相川七瀬は、現在50才。3人の子供の育児が一段落したいま、期せずして「人生の転換期」を迎えていた。「夫婦」と「家族」──同じようで違うこの2つの関係に揺れた胸中を初めて明かす。【前後編の前編】
「いつかは自分の口から話さなければいけないと思っていましたが、どのようにお伝えしようか悩んでいたら時間が経ってしまい……夫とは1年ほど前に別れました」
今年、デビュー30周年を迎えたロックシンガーの相川七瀬(50才)は、意を決した表情でこう話し始めた。
8月の全国ツアーは全会場でチケットが完売するなど、30年の時が経っても彼女の色あせない歌声はファンを魅了し続けている。1995年、20才のときに織田哲郎(67才)プロデュースのシングル『夢見る少女じゃいられない』でデビューすると、同曲は36万枚を超えるヒットを記録。翌年に発売したファーストアルバム『Red』は270万枚を超え、5枚目のシングル『恋心』はミリオンセラーとなった。
その後も『トラブルメイカー』や『Sweet Emotion』など数々のヒット曲をリリースしてきた相川は、人気絶頂だった2001年2月、26才の誕生日に11才年上の音楽関係者と結婚。当時、相川は「私にとってかけがえのない理解者の1人です」と、自身のホームページで結婚を報告した。
同年9月に長男を出産し、2007年に次男、2012年に長女を授かった。元夫は相川の個人事務所の役員を務め、彼女を公私にわたってサポートしてきた。傍目では、おしどり夫婦と言われ、3人の子供に囲まれる幸せそうな生活──しかし、結婚から20年以上が経ち、夫婦関係は変わっていたという。冒頭の告白の通り、昨年、相川は離婚した。決断に至った大きな理由として「家の中が会社のようになり、息苦しかった」と明かす。
「彼は私の個人事務所の代表というだけでなく音楽制作のプロで、お互いクリエーター同士でした。コロナ禍になって、仕事の話や作業を自宅でもすることが増えていったんです。たとえば、私の仕事に彼が意見を言ったり。逆に彼が作るものに対して私が『それは違うと思う』といった、考え方の違いからくる軋轢のようなものが、仕事場ではなく、家庭の中で積み重なっていきました」(相川・以下同)
コロナ禍でリモートワークが主流となり、ただでさえ曖昧だった仕事と家庭の境目が、より不明瞭になっていった。以来、家庭内での“衝突”も増えていったという。
「言い方が難しいのですが、彼は私に『いままで通り自分(相川七瀬)の音楽をやればいい』というスタンス。でも、私は年齢を重ねて、20才で歌った『夢見る少女じゃいられない』の頃の自分とは違う。子供を産み育て、明らかにミドルエイジになっている自分がいままでと同じ音楽性のままで仕事を続けることは想像できなくて……。すごく『自分の音楽が小さくなっている』、『消極的だな』って感じてしまうようになっていたんです。それは思った以上に自分の中に“ドーン”と重く突き刺さっていました」

20代、30代と子育てに奔走してきた相川は、40才を迎えて“学び直し”を決意し、高卒認定試験に合格。45才で國學院大學に進学し、いまも大学院で学び続けている。そんな彼女は、音楽性だけでなく、夫婦が描く“未来”にも、違いを感じてしまっていたという。
「子育てってずっと続いていくものじゃなくて、息子2人も成人し家から出ていってしまう日が直前に来ていて。娘もあと何年一緒にいてくれるのかなって考えると、50代以降、どうやって生きていくんだろうって不安になってしまったんです。
これまで通りだと、仕事もどんどん小規模になっていくかもしれないなか、私は新しいことをやりたいと思うようになっていて、変化を求めていました。彼は年上なので、その先の自分の姿を見ていましたが、私は子供が手を離れてきた50代。あと20年は現役で歌い続けたい。そういった価値観のギャップも、離婚に至った原因の1つだったのかもしれません」
それでも20年以上連れ添った2人は、“夫婦でいられる関係”を模索した。
「夫婦げんかはどこのご家庭でもあると思うんですよね。私たちも、ずっとそういうことはあったんですけど、家でも一緒、仕事でも一緒となってくると、お互いに逃げ場がない。だから、いまから2年ほど前に『環境を変えてみよう』という話になったんです。
曲作りや大学のレポートを書くときなんかは、ホテルの一室を借りてやっていたのですが、ホテルは何か違うなと。普段の家事や、子供たちの習い事の送迎は私がやっているので、家族の家の近くにもうひとつ家があれば行き来できると思い、“別宅”を借りて、二拠点生活を始めました」
1年の別居生活を経て、夫婦が出した結論は“離婚”だった。相川の方から切り出したという。
「環境を変えても関係は改善しませんでした。私は彼をクリエーターとしても尊敬してきましたが、このまま続けると、その気持ちまでなくなり、家族でさえいられなくなってしまうという思いになりました。どうしても家族が壊れるのだけは避けたかったんです。
彼もこのような未来は描いていなかったと思いますが、『家族として仲よくいられるのだったら“夫婦であること”に固執しなくてもいいのかな』と、お互いにそう考えるようになっていました」
“家族を守るため”の離婚届は相川がひとりで提出した。当時の心境を振り返る。
「『婚姻届じゃないので2人で行くのもおかしいよね』という話になり、私が行きました。出す直前、いろいろな思いが頭をよぎりました。紙切れ一枚なのに、これを出すと夫婦ではなくなる……本当にこれでいいのか、大丈夫なのか。でも、家族としての関係は変わらないと信じて出そうと。その日の気持ちはずっと重かったですね」
(後編へ続く)
※女性セブン2025年10月9日号






