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【哀悼秘話】美輪明宏さん、生涯にわたって訴え続けた“反戦” 戦争に芸術を奪われたことで芽生えた権力への反発、決定的だった10才での被爆経験

生涯にわたって反戦を訴え続けた

 1935年、長崎の裕福な家庭に生まれた美輪さんは幼少期から目鼻立ちの整った美少年として地元では有名だった。当時を知る故郷の知人が振り返る。

「明宏の実家は歓楽街でカフェや料亭、風呂屋などを手広く経営していました。母親はハイカラな女性で、気っ風のいい性格で周囲から“女傑”と呼ばれていたそうです。明宏が2才のときに火事で母親を亡くしてからは父親の再婚相手が継母として育てていましたが、明宏の美貌や聡明さは産みの母親譲りだったといわれています」

 学校の成績は常に1番で、中学生の頃から難解な哲学書を好んで読んでいた。

「頭がいいだけでなく、どんな友達とも分け隔てなく接して、弱い者いじめをする者がいれば上級生でも平気で叱りつける。学校中の人気者で、彼の周りにはいつも人が集まっていました。女学生からよくラブレターをもらっていましたが、本人は異性に興味がなく、ほとんど読まずに捨てていたそうです」(前出・故郷の知人)

 感受性が豊かで、絵画や映画、芝居などの芸術にのめり込んだ美輪さんが、特に夢中になったのが音楽だ。

「カトリックの教会に通うようになったことがきっかけだったと思います。当時は教会に行くと靴下がもらえて、信仰とは関係なく明宏は毎日のように教会に行っていました。そこで外国の歌を覚え、実家の前にある楽器店でクラシックやシャンソンに触れたそうです。家でもよくオルガンを弾きながらフランス語で歌っていました」(前出・故郷の知人)

 だが、1941年に太平洋戦争が始まると、のどかな日常は一変。それまで親しんできた外国の音楽は敵性文化として禁じられ、自由に歌うことができなくなった。このとき、戦争に芸術を奪われた経験が美輪さんの心に権力への抵抗を植え付け、生涯にわたって反戦を訴え続ける動機のひとつになった。

 決定的だったのは、10才のときの被爆経験だ。長崎に原爆が投下された瞬間、「世界中のマグネシウムをいっぺんにたいたような」凄まじい閃光が走り、目の前の明暗が真っ逆さまにひっくり返ったという。

「多くの親戚や友人、近所の人々が命を落とし、地獄のような光景を目の当たりにしたそうです。かろうじて生き延びた美輪さんも髪が抜け落ち、一時は吐血などの急性症状にも苦しめられていました」(前出・芸能関係者)

舞台『黒蜥蜴』の脚本を担当した三島由紀夫さん(真ん中)や共演陣と談笑する美輪さん(左から2人目)
写真9枚

 終戦後、オペラ歌手に憧れた美輪さんは当時の国立音楽高等学校に進学するために上京したが、思い描いた夢と授業のギャップに失望して中退。その後、カフェでのアルバイトやホームレス生活を経て、16才のときに東京・銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」のステージに立った。

「美輪さんの中性的な美貌と美声はたちまち評判を呼び、元祖“シスターボーイ”として人気を博しました。1957年にシャンソンのカバー曲『メケ・メケ』を発表し大ヒット。さらに1965年に自ら作詞作曲し、親子の“無償の愛”を歌った『ヨイトマケの唄』は社会現象にもなりました。俳優としても寺山修司さんの戯曲『毛皮のマリー』や三島由紀夫さんの『黒蜥蜴』などに主演し、いずれも大きな成功を収めています」(前出・芸能関係者)

 美輪さんに惚れ込んだ三島さんは「天上界の美」と絶賛したが、女装してメディアに登場し、自ら同性愛者であることを告白した美輪さんに反発する人も少なくなかった。

「当時はまだ海外でも同性愛がタブーとされていた時代。世間の目は冷たく、街を歩いているだけで“化け物”と罵倒され、石を投げられたこともあったそうです。親族まで白い目で見られ、旧友からも避けられるようになった美輪さんは一時期、長崎を大嫌いになったといいます」(前出・芸能関係者)

 長らく故郷とは距離を置き、仕事の依頼があってもほとんど断っていた。転機が訪れたのは2003年頃。長崎で講演会を行うと、大勢の同級生が駆けつけ、会場の周りに人だかりができているのを見た美輪さんは、初めて故郷に認められたことを実感して涙を流していたという。

「それまで『長崎では歌わない』と言って頑なにコンサートを開くことを拒んでいましたが、そのときの講演会を機に歌うようになったといいます」(別の芸能関係者)

※女性セブン2026年7月23日号

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