
47歳で17年ぶりに仕事を再開し、バンコクの学校食堂マネージャーから外資系ホテルの日本法人社長まで多様な職を経験した薄井シンシアさん(63歳)。連載「もっと前向きに!シン生き方術」では、日本に帰国してからの約11年のキャリアにおける転職模様を振り返り、成功のポイントや反省していることを語ってもらいました。
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会社とは昇給や待遇について交渉するべき
2021年5月から働いていたホテルをこの7月で退職したので、今回は、日本に帰国した52歳以降のキャリアで、私がどう転職してきたかを振り返ります。
帰国して最初に就いた仕事は、会員制クラブの電話受付。制服を着て、時給1300円の仕事でした。仕事は周りにどんどん教わって、教わったことを自分でマニュアルにまとめて効率化しました。仕事に慣れたら自分から手を挙げて、会員の子息の誕生日パーティーを企画・運営するように。これがきっかけとなり、私は自分がいた事業部の売り上げの2割を稼ぐことができました。

正社員になることを会社側に要求
中途で入ったら、給与や待遇、働き方のことは、会社としっかり交渉するのが当たり前。新卒みたいに何年目になったら研修があって昇給があってという世界ではないので、放っておいたら待遇はよくなりません。
会員制クラブで実績が出せたので、私は意気揚々、会社側と面談しました。私の要求は、月給制(正社員)。ところが、会社側の回答は非正規雇用のまま時給100円アップというものでした。ギャップが大きすぎて、これでは働き続けることはできません。残念ですが、退職を選びました。
会社との交渉はあくまで“冷静に”
次の働き口は、東京・赤坂にあるシティホテル。タイの食堂時代の働きぶりを知っている支配人が声をかけてくださって、転職が叶ったのです。ここでも1年目から実績を上げて、会社側との面談に臨みました。しかし、会社側から提示されたのは、他の従業員と同じ2~3%の昇給。
これで、私はついカッとなってしまいました。高い目標を与えられ、それを超えた実績なのに、そうでない人も含めた平均的な昇給率になってしまうのが理不尽に思えたんです。怒りで勢いがついて、40%の昇給を要求してしまいました。自分でも分かります。これはいくらなんでも要求が大きすぎる。結局、支配人が間に入ってくださって、20%の昇給に落ち着きました。
感情的になると上司や同僚の信頼を損ねる
このときはたまたま助けてくださるかたがいて、いい結果に終わりましたが、でも、自分が冷静でいられなかったのは反省点ですね。職場で感情的になるのは厳禁。上司や同僚の信頼を損ねるし、交渉も決裂する可能性が高くなります。会社と交渉はするべき。でも、あくまで“冷静に”するべきです。

冷静になって考えれば、会員制クラブのときにしたって、何も会社は私の働きを全く認めていなかったわけではないと思います。会社には、今は正社員の枠がないとか、前例のない割合で昇給はできないとか、組織としての論理がある。他の従業員への対応とバランスを取らなければいけません。私も落ち着いてそこを意識できたら、落としどころは探れたはずなんですよね。
キャリア中断前の給料にこだわったことを反省
この当時、私は自分が結婚前に日本の貿易会社で働いていた時代の報酬がいつも念頭にありました。早くそこにもう一度到達しなければという焦りのような気持ちを抱えていた。シティホテル時代も、自分の給料の約1.4倍で到達するという計算をしていたので、とっさに40%と口走ってしまったんだと思います。
肩書を要求して副支配人に
これもよくなかった。業種や職種、景気の浮き沈みや会社の状況、いろんなもので報酬は左右されます。離職前の給料を目標にする合理性はどこにもないのに、変にこだわってしまった。無意味な比較をして、今の自分がダメだとか、会社に評価されていないとか思って落ち込んだり腹立たしく思ったりするのは愚かしいですよね。
次の年は昇給ではなく肩書を要求して、このホテルでは結局、副支配人になりました。そうこうするうちに、業界の勉強もして、もっとラグジュアリーな、1泊50万円の部屋があるようなホテルのほうが、日本の観光業として目指すべき場所なのではないかと考えるようになり、それでまた転職しました。
「好きを仕事にしよう」とは言ってられない
都内でも有数のラグジュアリーホテルに転職して、今度は「ディレクター」の肩書をもらいましたが、役職がついても奥に引っ込んでいるのではなく、常にお客さまと接することのできる最前線にいました。お客さまの荷物を持ったり、お客さまにコーヒーをお出ししたり、エレベーター前で待ち構えていたり。

ラグジュアリーとは何か、富裕層が求めるサービスは何か、勉強したかったので、一言でもいいからお客さまと会話するようにしていました。お客さまが東京に来て何を見たか何を食べたか、どんな靴を履いているかどんなバッグを持っているか、全部知りたいことだったんです。
「ラグジュアリーホテルの仕事が性に合ったんですね」「好きなんですね」と言われることもありますが、そうではないですね。英語力があって、これまでのキャリアがサービス業中心だったからその経験を生かして選んだ場所。要は、“好き”ではなく“得意”を仕事にしたんです。目いっぱい努力したのは、単に仕事だからです。
自分にできることで稼ぐだけ
17年間、子育てという最高に楽しい時間を過ごしたあと、ワケアリ人材として労働市場に出て行くからには、「好きを仕事にしよう」などとは言っていられない。だいたい、娘以上に好きなものもありません。自分にできることで稼ぐだけだと割り切りました。
私と同じ事情でなくても、「好きを仕事に」が遠い話に思える境遇の人がたくさんいると思います。それを腐すような価値観はあまり広まってほしくないなと感じます。
裏方仕事に精を出して人脈をつくる
そうやって目の前のことに一生懸命になっていると、たまたま飲料メーカーの人事部長にお会いすることがあって、その会社のオリンピック接遇チームに誘ってもらいました。ところが、これがコロナ禍の影響を受けてリストラにつながって――、という以降の話は前回書きましたね。
こうして振り返ると、人の紹介や招きがあって仕事が見つかることが何度かありました。人脈って、誰かと一度会ったことがある、顔と名前と肩書を知っている、というだけでは成立しないものです。大事なのは、相手に自分を“役に立つ人間”として印象づけること。これをどう実現するかですよね。

人生を通してワークライフバランスを考える
私が取った方法は、よく働くことでした。ホテルに転職してから、仕事とボランティア活動しかしなかった。ワークライフバランスを1日の中で取ろうとしないで、人生を通してバランスが取れたらいいと思っているので、仕事漬けの時期があっても構わないんです。
ボランティアというか、第二の仕事として取り組んでいたのが、在日米国商工会議所(ACCJ)の観光委員会の委員長。著名なホテルの総支配人に声をかけ、「2人で委員長を務めましょう」と誘って、実務は私がやりました。例えば、観光庁長官を講師に招いた出国税の勉強会だとか、メンバーに有益なイベントを企画・運営するんです。そしてイベント当日、開会あいさつなどは、もう一人の委員長にお願いしました。
忙しい総支配人には委員会の仕事でわずらわせないで、花を持たせるというわけです。イベントにとっても、管理職の1人にすぎない私が登壇するより、総支配人に出てもらったほうが箔が付くというものです。
そうすると、総支配人も少しは私に恩を感じてくれるし、一緒に仕事をした事務方の人たちは私の働きを見ていてくれるので、続けていれば評判が広まります。これが大事。自分でいくら「私、仕事できるほうなんですよ!」と言っても痛いだけです。そういうことは周りに言ってもらわないと(笑い)。飲料メーカーのかたとは、この活動で知り合いました。
薄井シンシアじゃなくても交渉はするべき
会社とは必ず交渉する、あくまで冷静にする、得意を生かして仕事を選ぶ、つくれるときに人脈をつくっておく――転職のポイントはこんなところでしょうか。会社側と交渉なんて普通はできない、生存者バイアスでものを言っている、と思う人もいるでしょう。かつては、あるいはそうだったかもしれませんね。私だったからうまく事が運んだのかも。でも、今は違います。
とある省庁に正規職員として勤める知人が、「海外へ転居するので退職します」と申し出たら、「頼むから辞めないでくれ」「シリコンバレーからリモートワークの形で構わないから続けてくれ」と言われて、今は実際にリモートワークをしているそうです。お堅そうな官庁でも、こんな柔軟な対応を取るんです。
人手不足の今は従業員の要求が通りやすい
派遣社員としてとある企業に数年間勤めていた人が、出産を機に退職して、数年経って元の会社と交渉して、同じ職場の同じ仕事に戻ったという話もあります。実質、制度はないけれど産休が取れたような形ですよね。
通販大手の非正規従業員だった人が、競合他社に鞍替えして、数か月後に出戻りが許された例もあります。他社で働き始めて、やっぱり前の会社のほうが水が合うなと思ったので、ダメもとで元の職場に戻りたいと連絡してみたら、あっさりそれが叶ったんだそうです。
人手不足なんです。どこもかしこも。従業員が多少の要求をしても通りやすい時代です。少なくとも交渉してみる価値はあるので、不満を抱えながら働いている人がもしいたら、勇気を出してみてもいいのではないでしょうか。
◆薄井シンシアさん

1959年、フィリピンの華僑の家に生まれる。結婚後、30歳で出産し、専業主婦に。47歳で再就職。娘が通う大学のカフェテリアで仕事を始め、日本に帰国後は、時給1300円の電話受付の仕事を経てANAインターコンチネンタルホテル東京に入社。3年で営業開発担当副支配人になり、シャングリ・ラ 東京に転職。2018年、日本コカ・コーラ社に入社し、オリンピックホスピタリティー担当就任するも五輪延期により失職。2021年5月から2022年7月までLOF Hotel Management 日本法人社長を務める。近著に『人生は、もっと、自分で決めていい』(日経BP)。@UsuiCynthia
撮影/黒石あみ 構成/赤坂麻実、編集部
●「生きがいなんていらない」薄井シンシアさんがそう語る理由と、社長を務めたホテルの退職そしてこれから