作り手の覚悟と二宮和也の重責
本作は何といっても、山本を誰が演じるのかが重要です。いくら脇を固める俳優陣がよいとしても、その中心に立つ者が未熟では一気に作品は強度を失ってしまうことでしょう。それに本作が描いているのは史実を基にしたものです。あくまでも“基”とはいえ、それを安易に創作物にしていいわけがありません。作り手全員に相当な覚悟が求められるはず。
そういった意味で主人公・山本役には重責が課されるわけですが、このポジションに二宮さんが起用されたのには納得です。
硬軟を自在に操る演技力
彼はこれまでにも映画『硫黄島からの手紙』(2006年)や映画『母と暮せば』(2015年)などの“戦争と人々”を描いた作品に出演してきた実績がありますし、作品のジャンルやキャラクターのタイプを問わず俳優として常に挑み続け、それらの幅の広さから、硬軟自在な演技者として認知されてきました。
本作での山本は朗らかな人物ですが、それだけでは過酷な環境下で心を強く保つことは不可能。そこには朗らかさ(=軟)とともに、厳しさ(=硬)が同居しています。ここの表現のバランスが非常に難しいところだと思いますが、二宮さんは“硬”の演技と“軟”の演技を自在に転換させ、誰よりも人間くさい山本像を作り上げているように感じるのです。
いまを生きる世代にできる負の遺産の背負い方
本作を観て改めて思い知らされたのが、あらすじでも触れた“戦争が終わった日に戦争は終わらない”という真実です。筆者は戦争を知らない世代の若輩者ですが、いまこれをお読みのかたのほとんども、おそらく実体験として戦争を知らない世代なのではないでしょうか。何せ、終戦から80年弱も経っているのですから。
劇中には「もはや戦後ではない」という有名な一節が登場しますが、果たしてそうでしょうか。抑留者の人々の多くの無念はいまだにあの土地に眠ったままで、「戦後」世代の私たちは、現在もなお敗戦の、いえ、戦争そのものの負の遺産を背負っています。戦争と直接のかかわりがなくとも、この歴史が存在する以上、私たちはかかわり続けているのではないでしょうか。意識的に負の遺産を背負うべきなのではないかと筆者は思います。
こう記すとどうにも厳しい印象を与えてしまうかもしれませんが、そうではありません。山本幡男さんという人が実際に存在し、異郷の地で無念にも命を落としてしまった事実や、彼のほかにも大勢の人々が無念の最期を迎えた事実、そして、物語にさえ描かれなかった人々もいる事実。このことを忘れず、いつまでも考え続けることが、いまの時代を生きる誰しもができる負の遺産の背負い方だと思うのです。
◆文筆家・折田侑駿
1990年生まれ。映画や演劇、俳優、文学、服飾、酒場など幅広くカバーし、映画の劇場パンフレットに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。https://twitter.com/yshun