【TOKIO解散までの31年】音楽性について事務所に反発した国分太一、転機となった『鉄腕DASH』、「K」の字に込められた意味…悲劇的な結末でもメンバーは国分を見捨てなかった

TOKIOの国分太一(50才)に、コンプライアンス上の問題が複数あったことを確認したとして、日本テレビが人気番組『ザ!鉄腕!DASH!!』からの降板を公表したのは6月20日。同日、所属事務所の「株式会社TOKIO」が国分のすべての活動を無期限で休止することを明らかにし、その5日後にTOKIOの解散が発表された。旧ジャニーズ事務所の黄金時代を支えたTOKIOのこれまでをたどる。【前後編の後編】
31年間の長い歴史に幕を下ろしたTOKIO。グループとしての活動期間は、旧ジャニーズ事務所では少年隊に次ぐ長さで、不祥事さえなければ未来永劫、解散することはないとさえ思われていた。
「結成は1990年。旧ジャニーズ事務所では珍しいバンド編成による5人組で、もともとは『東京』というグループ名だった男闘呼組の系譜を継いでいるともいわれています。
国分さんは、元SMAPの稲垣吾郎さんと同年代で、デビュー前はSMAPの一員として雑誌などに紹介されたこともありますが、本格的な活動は平家派というグループに入ってからのこと。城島茂さん(54才)や山口達也さん(53才)、元V6の坂本昌行さんや反町隆史さんらと、光GENJIのバックダンサーなどを務めていました」(別の芸能関係者)
平家派が自然消滅し、くすぶっていた国分にチャンスが巡ってきたのは16才のとき。別のアイドルグループのメンバーが語る。
「当時の事務所は、国分にはそれほど期待していなかったんです。ところが、雑誌でジャニーズJr.の特集が組まれると、予想以上にアンケートの反響が大きかった。いちばんの理解者であるファンが認める国分を新しいグループに入れようとなり、TOKIOへの加入が決まりました」

さらに1991年に入所した長瀬智也(46才)が加入したことで、デビュー後の成功は約束されたようなものだった。
「当時、事務所に送られてきた年間100万通以上の履歴書の中で、長瀬さんの写真はダントツのオーラを放っていたそうです。合宿所に挨拶に来た長瀬さんを、国分さんは“ようこそ!”と笑顔で受け入れたが、Kinki Kidsと組みたいと考えていた長瀬さんはショックを受けたといいます」(レコード会社関係者)
1994年、“ダテに待たせたわけじゃない”というキャッチフレーズとともに華々しいデビューを飾ったTOKIOは、ファーストシングル『LOVE YOU ONLY』の発売から約2か月後に日本武道館のステージに立ち、同年のNHK紅白歌合戦に初出場する快挙も成し遂げた。
「これ以上ない順調な滑り出しでした。ところが、中学時代から地元の友達とバンドを組んでいた国分さんは『何でこんなチャラチャラした歌謡曲をやらなきゃいけないんだ』と事務所に猛反発。メンバー同士の仲も決してよいとは言えず、人気は定着しなかった。
プロモーションに莫大なお金をかけたデビュー曲もオリコンチャートの3位どまりで、2001年に22枚目のシングル『メッセージ/ひとりぼっちのハブラシ』で1位を取るまでに7年以上の月日を要したのです」(前出・レコード会社関係者)
当時、かつては自分も参加していたSMAPのブレークを目の当たりにした国分は、「一度でいいから売れてみたい」と悔しそうに話していたという。

大きな転機が訪れたのは1998年。深夜番組として放送されていた冠番組『ザ!鉄腕!DASH!!』がゴールデンタイムに昇格し、TOKIOは一躍、お茶の間の人気者に。その理由を国分は著書『タヒチ タイッチのリゾート気分で』(M.Co)で《身近なあんちゃん達が、体も張るしアイドルとして歌も歌う。そういう存在みたいなものを確立できた》と分析している。
「国分さんが『もっとアメリカンロックに近い感じの曲をやりたい』と、事務所側に直訴したこともあるそうです。しかし、『いまの仕事を全部ゼロにするならいい』と言われ、はたと目が覚めたのだとか。仕事があるありがたみを実感し、その頃からようやく目の前の仕事に真剣に取り組むようになったといいます」(前出・テレビ局関係者)
その後、『ザ!鉄腕!DASH!!!』は最高視聴率27%を記録。30年以上続く長寿番組となったが、回を重ねるごとに番組側の要求がエスカレートし、ロケは過酷を極めたという。
「早朝から夕方までぎっしり撮影を行い、メンバーもスタッフも寝る間を惜しんで収録に臨んでいました。特に長瀬さんはDASH島でのロケが多く、体力的にもかなりキツそうでした。スタッフも疲弊し、演出を巡って意見が対立することもありました。それほどギリギリの撮影だったのです」(番組関係者)