
誕生日を迎えた国母が手ずから認めた文書には、戦争や災害への憂慮や国際親善への充実感、そして皇族方への配慮と愛娘への慈愛の眼差しが込められていた。誕生日文書と医師団の見解を読み解き、快復の兆しを見せる雅子さまの最新病状に迫る。
紺色の大きなアルバムを陛下と一緒にお持ちになり、緑の丘の連なる美しい自然を思い起こしながらページをめくられる雅子さま。その中に収められたお写真を一枚一枚のぞき込み微笑まれるお姿には、この1年間のご公務で感じた充実の思いがあふれていた──。
12月9日に62回目の誕生日を迎えられた雅子さまにとって、2025年は例年以上に精力的に活動された1年となった。
「4月の硫黄島を皮切りに沖縄、広島、長崎と戦争の記憶を残す地を次々に訪問されました。それ以外にも、神戸や能登などの復興状況を視察されたほか、7月にはモンゴルをご訪問。大雨の中、日本人抑留者の慰霊碑に向かって1分間の黙祷を捧げられるなど、ご公務への思い入れは鬼気迫るものがありました。
依然としてご体調に不安を抱えられる雅子さまは、時折、お疲れの様子が目撃されることもありましたが、戦後80年の節目の年に、陛下と共に慰霊の旅を完遂されました」(宮内庁関係者)
冒頭に触れたのは、雅子さまの誕生日に公開された両陛下の最近のご様子だ。おふたりが眺めていたのは、7月のモンゴル訪問時のアルバムだった。
「沖縄や長崎などは愛子さまと一緒に初めて訪問され、ご一家にとって思い出深い場所となったのですが、同時に戦禍の色が濃い訪問先でもありました。誕生日のお写真では陛下と一緒に笑顔で写っていただきたいと思っていましたが、雅子さまは戦争の記憶を留める場所を振り返り笑顔になるというのも違うと判断され、モンゴル訪問時のお写真を眺められたのでしょう。
また、両陛下の傍らには、2007年に陛下がモンゴルを訪問された際に贈られた民族衣装が置かれていました。20年近く前の贈り物を大切にお持ちになり、こうして一緒にお写真に写ることで、改めて感謝のお気持ちを示されるというご配慮は、細やかな気遣いをされる雅子さまのお人柄を表しています」(前出・宮内庁関係者)

慰霊の旅を完遂された2025年、雅子さまが誕生日に公表された文書には戦争への言及に多くのボリュームが割かれていた。
「戦争体験を語り継ぐことの大切さに触れ、《辛い体験を話して下さった御高齢の方々に心から感謝したいと思います》と記し、雅子さまご自身も《祖父母からも生前に、戦争中の様々な体験を聞いたことを思い出します》と、幼少から戦争の記憶に触れていたことを初めて明かされました。
2025年の両陛下のご活動には、愛子さまに『戦争の記憶に触れてほしい』と考えていらっしゃる様子がにじんでいましたが、背景には雅子さまのご経験も影響しているのでしょう」(皇室ジャーナリスト)
6月の沖縄ご訪問では、こうした雅子さまの姿勢が現地の人々を感動させたエピソードも記憶に新しい。平和祈念資料館で両陛下と懇談された照屋苗子さんは、本誌『女性セブン』の取材に雅子さまとのやり取りをこう語っている。
「9才のとき、私の家族は迫撃砲でやられ命を落としてしまいましたが、天皇ご一家と対面し、初めて『(私の肉親の最期を)話したい』と思いました。ご一家からは“聞いてくださる。話を聞きにわざわざ来てくださったんだ”という親近感のような雰囲気を感じたのです。実際、雅子さまは、私が話している間ずっと手を握ってくださり、最後は涙ながらに『お話ししてくださってありがとうございました』と声をかけてくれました」
日々、ご公務にまい進される雅子さま。国民の期待も大きいが、誕生日の文書を巡っては、不安の声も聞かれた。
「文書が記者たちに公表されたのは、誕生日前日の12月8日。雅子さまはご体調との兼ね合いもあり、カメラの前でお話になるのが難しい分、毎年、推敲に推敲を重ねた文書を公表されます。そのため、今回もギリギリになってしまったようです。
愛子さまもラオスでの挨拶のお言葉を直前まで練り上げられていたそうですし、その点はおふたりのよく似ているところですね。ただ、文書を『いまか、いまか』と待っていた記者の中には『本当に誕生日に間に合うのか……』という声もありました」(別の宮内庁関係者)