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薄井シンシアさん、「旅に出たい夫と働きたい私」ライフスタイルが正反対 夫との離婚までになぜ10年かかったのか

薄井シンシアさん
薄井シンシアさんは夫との離婚までになぜ10年かかったのか
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外資系企業の正社員として働く薄井シンシアさん(64歳)は、結婚後、仕事を辞めて外交官の男性に連れ添い、17年間の専業主婦生活を送りました。子育てが終わった47歳のときにキャリアを再スタート。58歳で、30年あまり連れ添った外交官の男性と離婚しました。「シンシア流離婚・その1」は、離婚に10年間をかけたというシンシアさんの軌跡をたどりました。

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求めるライフスタイルが正反対

最近は「熟年離婚」という言葉もありますが、私の世代は「結婚は一生ものだ」と考えて、離婚をネガティブなことだと考えている人が多くいます。

私は離婚を考えてから離婚届を提出するまでに10年間を費やしました。もし、夫の暴力や借金、性格の不一致などの明確な理由があれば、離婚するのは簡単。でも、そういう決め手が一つもなかったので時間がかかりました。

元夫と気持ちがすれ違い始めたのは、娘が米国の大学へ進学した頃です。元夫は30年以上も「仕事一筋」で働いていたので疲れていた。これから人生をスローダウンしようと、守りの態勢に入っていました。

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夫とはお互いの求めるライフスタイルが正反対だった
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反対に、私は17年間の専業主婦生活が終わって「これから人生を加速していくぞ」と考えていました。お互いの求めるライフスタイルが正反対。でも一方で、決定的な理由がないのに離婚の必要があるのか、という気持ちもありました。

旅に出たい夫と、猛烈に働きたい私

元夫は、早期退職して旅に出て、毎日おいしいものを食べたいと考えていました。それを聴いた私は「いやいや、ちょっと待ってよ。私は猛烈に仕事をしたい」と思いました。でも彼に「1人で旅行して、外食して」というのは私のわがまま。旅行は1人で行くよりも、誰かと一緒のほうが幸せでしょう? 私が一緒に行けないなら、彼はパートナーをみつけたほうがいいと思いました。

そう気づいたのは、ある土曜日の朝でした。彼は平日に遅くまで働いて、土曜日はすごく疲れています。私は朝から家事でフル回転。その時に「ああ、全然違う方向を向いているな」と思いました。

私には「彼にご飯を作ってあげたい」という気持ちの一方で、「ご飯は何時に食べるの?」と、彼のスケジュールに合わせる生き方をしたくない気持ちがありました。仕事だけに専念したかった。でも、私から離婚は切り出せませんでした。

「逆・単身赴任」→同居→別居

初めは別居をしました。娘が米国へ進学することになり、夫と娘は米国暮らしをスタート。私はバンコクに1人で残って食堂で働くという「逆・単身赴任」です。でも2年ほど経って「結婚しているのに、なぜ1人で残っているんだろう」と考えて仕事を辞め、夫の住む米国へ行きました。でも米国では何もやることがない。そのときに「仲が悪いわけではないけれど、なんとなく離婚するのかな」と考えました。

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仲が悪いわけではないけれど、なんとなく離婚を予感
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米国で1、2年が過ぎた頃、夫は日本へ転勤になりました。私は学校に通っていたので米国に残り、彼は実家から職場へ通い始めました。しばらくして娘が大学を卒業し、日本の会社に就職したので、私と娘もそのタイミングで帰国しました。けれども、彼の実家から娘の職場は遠かった。私と娘は娘の勤務先の近くに家を借り、暗黙の了解で日本でも別居をしました。

「もう、離婚したほうがいいよね」

帰国して1年ほど過ぎた頃、今度は彼の海外赴任が決まりました。私は日本で働き始めていたので「私は行かないよ」「じゃあ単身赴任だね」ということになり、彼は単身で赴任しました。彼は現地に3年ほど住んだあとに米国へ転勤となり、娘と同居を始めました。

彼は米国から日本へ転勤するとき、また実家へ戻りました。そのときに私は「もう、ずっと別居だな」と感じましたが、私から離婚を切り出す勇気はありませんでした。

そんなとき、彼が「もう、離婚したほうがいいよね」と言ったので、私も「そうね。離婚したほうがいいよね」と答えました。お互いに冷静でした。私たちは、自然に別々の方向を向いていたのです。

「帰る家はない」。背中を押した娘の言葉

娘はよく私たちに「パパとママは、やっぱり合わなかったかもしれない。でも、私には2人とも最高の親だから、パパとママが幸せになればいい」と言っていました。

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娘の言葉に背中を押されたというシンシアさん
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私は、離婚したら娘の帰る家がなくなることを一番心配していました。でも、幼い頃から転勤を繰り返してきた娘は「私の『家』の定義は、パパとママがいた自分が幼い頃の家だよ。でも子ども時代に戻れないから、そもそも帰る家はない。パパとママが頑張って維持しても意味がないよ」と言いました。

娘があっさり「帰る家はない」と言ったことで、自分が過去にしがみついて、過去を荷物にしていたことに気が付きました。家の定義を娘に教えられたのです。

離婚届は、私が漢字を書くのが苦手なので、元夫が記入しました。最後に直接会ってサインをし、彼が「〇〇に退職金を受け取るから、振り込むね」と言い、「うん、分かった」と答えて別れました。後日、元夫から「今日、振り込みました」とLINEのメッセージが届いたので、「税金で損をしたくないので、税金だけはきちんと調べてね」と返しました。これでおしまい。あまりにも自然でしょう?

これまでも元夫とは、合理的なルールを決めて暮らしてきました。例えば、私は家の中が散らかっていることが大嫌い。でも、それぞれの部屋がどれほど散らかっていようが、私には関係ありません。ただ「3人が共有するスペースはきれいにしましょう」と言いました。トイレも掃除をしているのは私だから「こういう風に使ってね」という私のルールに従ってもらいます。それは私に対する最低限のリスペクトです。

旅行は、彼は好きで、私は興味がない。だから「旅行に行きたいの? じゃあ、あなたが計画してね」と彼に任せました。元夫は仕事一筋なので、お金の使い方もお互いに衝突することはありませんでした。

◆薄井シンシアさん

薄井シンシアさん
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1959年、フィリピンの華僑の家に生まれる。結婚後、30歳で出産し、専業主婦に。47歳で再就職。娘が通う高校のカフェテリアで仕事を始め、日本に帰国後は、時給1300円の電話受付の仕事を経てANAインターコンチネンタルホテル東京に入社。3年で営業開発担当副支配人になり、シャングリ・ラ 東京に転職。2018年、日本コカ・コーラに入社し、オリンピックホスピタリティー担当に就任するも五輪延期により失職。2021年5月から2022年7月までLOF Hotel Management 日本法人社長を務める。2022年11月、外資系IT企業に入社し、イベントマネジャーとして活躍中。近著に『人生は、もっと、自分で決めていい』(日経BP)。@UsuiCynthia

撮影/小山志麻 構成/藤森かもめ

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