かつて、グラマーな体形から「バズーカップ」というキャッチコピーでグラビアデビューし、話題となった別府彩さん(48歳)。多くのバラエティ番組に出演したが、それから数年で芸能界から姿を消した。なぜ華やかな世界を離れることになったのか? そして、現在の意外な活動とは――。
就職をせず独学でフリーアナウンサーに
別府さんといえば遅咲きのグラビアデビューで一躍脚光を浴び、その後バラエティ番組などに活躍の幅を広げたが、元々はグラビアやタレント志望だったわけではない。
「大学の就職活動では全日空やテレビ局などを受けました。キャビンアテンダントをするには身長が足りないと思ったので、全日空はグランドスタッフを、テレビ局はアナウンサーを志望しました。全日空は最終までいったのですが、全て落ちてしまったので、無理して就職しなくてもいいかなと思い始めたんです」
大学に通いながらイベントのコンパニオンやMC、ナレーターをしていた別府さんは、卒業後もフリーのまま仕事を続けようと考えた。
「フリーランスになる選択に抵抗はありませんでした。私が大学を卒業する頃はまだバブル景気の恩恵が残っていて、派遣社員やフリーランスでも生きていけそうだ、という雰囲気を感じました。
それに、父がずっとフリーランスだったんです。テレビCMの絵コンテを書く仕事で収入を得ている姿を見ていたので、必ず会社員にならなきゃいけないとか、就職しなきゃいけないという意識があまりなかった。家族を含めて考えが柔軟だったのかもしれないですね」
独学でアナウンス技術を学ぶ
「しゃべりが得意だから」という軽い気持ちでMCの仕事を始めた別府さんは、アナウンススクールなどでトレーニングを受けたことはないという。
「うまいなと思う先輩の口調を真似したり、カセットテープに録音して何度も聞いたりして、独学でスキルアップしていきました。インタビューの仕事を初めて受けた時には、上手だなと思うインタビュアーの方が出演しているテレビを録画して、すべて文字に起こしました。どんなやり取りをどのくらいのボリュームでしているのか、どんな言葉を使っているのかを研究しました」
オートレースのリポーターで注目されてグラビアデビュー
仕事の幅を広げながら、主に企業が主催するイベントのMCを続けていくなか、25歳頃に舞い込んだオートレースのリポーターの仕事が転機になった。
「初めてマイクを持ってカメラの前でしゃべるという仕事を経験しました。当時のオートレースはほぼ男性しかいない世界で、選手はもちろんのこと、女性のアナウンサーも少なかった。そこに若い女性がポンと飛び込んだので、すごく注目されたことを覚えています。オートレースに関して知識が乏しいのにもかかわらず、温かく迎えてもらえました」
その人気は2ちゃんねる(現5ちゃんねる)にスレッドが立つほどで、スタイルが話題にのぼることも多かった。
「胸について書かれることに抵抗もありましたが、1つの特徴として、私を広く知っていただけるきっかけになればとすぐに頭を切り替えました。ただし“胸が大きい”だけで語られるのはすごく悔しかったので、よりいい情報を届けよう、しゃべりのスキルをもっと磨こう、そんな気持ちで頑張っていました」
グラビアオファーに「舞い込んできたチャンス」
その意気込みが次の仕事につながった。初めて週刊誌からグラビアのオファーがあったのだ。
「『週刊ポスト』さんが年末年始の特大企画として、いままでにないグラビアをやりたいと考えていたようで、それで声をかけていただいたんです。でも31歳になっていたし、グラビアといえば多少は肌の露出もあるじゃないですか。どうしようかと迷いました。そもそも、私がそれをやったところで誰が見るんだろうって。
でも、プラスに考えると、年齢的にこれから仕事が広がっていくイメージが見えないなかで舞い込んできたチャンスです。フリーアナウンサーがグラビアをしたという話題性で、活躍できる場所を増やせたら嬉しいなと考えました。
あとは単純に、プロのカメラマンに撮影してもらえるなら、その写真は自分の一生の宝物になると思ったのでチャレンジすることに決めました。実際に現場でポラロイドを見た時には、“めっちゃきれい!”って声が出ました。被写体じゃなくて、カメラマンさんの腕がすばらしいからなんですけど(笑い)。やってよかったなと感動しました」
想定外だったのは、編集部に付けられた「バズーカップ」というキャッチコピー。
「このネーミングにも初めは抵抗がありました。当時“スイカップアナ”の古瀬絵理さんが注目されていた時期で、スイカはかわいいけどバズーカはかわいくないなと思って(苦笑)。でも、このぐらいインパクトあった方がいいと編集者さんに説得されて、しょうがないかなと」