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【骨になるまで・日本の火葬秘史】東日本大震災の犠牲者を送った「弔い人」の記録

仮埋葬された遺体は遺族に見せられない状態だった

未曽有の大災害が示した現代の「弔い」事情は火葬の浸透だけではない。遺族が大切な人を可能な限り安らかな状態で送るうえで、遺体の処理や納棺、火葬といった「葬送業」がいかに重要であるかということも浮き彫りにした。

遺体の発見から収容、埋葬地の整備と掘削、そして棺を納めるまで—仮埋葬に伴う作業は当初、装備と機動力を持ち合わせた自衛隊が実施した。だが、救出作業や復興工事など作業は山積しており、ほどなくして棺を納め終わると、その後の掘り起こしは地元の葬儀業者に委ねられることとなった。

東日本大震災は「火葬にして送る」文化が根付いたことを可視化した(Ph/PIXTA)
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冒頭の掘り起こしの作業は、仙台市の葬儀会社「清月記」の社員が、石巻市の仮埋葬地で体験したひとこまだ。2011年4月15日、「石巻市で仮埋葬されたご遺体を仙台まで搬送して安置して欲しい」という依頼を受けた清月記は、事業開発部長の西村恒吉ら3人の社員を派遣した。

土中から吊り出された棺はすでに潰れ、納体袋には大量の血液と脂があふれて猛烈な臭気が漂い、遺族には手出しできない状態だった。清月記への依頼は搬送だけだったが、遺体を扱うプロとして、口や鼻から流れる血液や体液を拭い、綿花などを詰める処置を施し、可能な限り清める処置をして、新たな棺に納めたという。

作業を手伝った叔父が、亡き姪にかけ続けたのが「いま、出してやっからな」という言葉だった。

清月記が仮埋葬した遺体の数は276体。土に埋めて弔った後、今度は仮埋葬した遺体を掘り起こして火葬する業務委託も受けた。

作業は5月7日から8月17日までの約3か月間に及び、葬った遺体の累計遺体数は672体となった。清月記の社員たちは春から初夏を経て真夏に至るまで、防護服で汗みずくになりながら苛酷な作業を続けた。

部長の西村は日々の活動の「業務日報」のなかで、「『いま、出してやっからな』という言葉に込められた気持ちに励まされながら掘り起こし、改葬の日々を過ごした」と記している。

犠牲になった娘と「出会い直し」させる

津波や火事、土砂崩れなどあらゆる二次被害を生んだ東日本大震災において、仮埋葬されることなく火葬で弔うことが叶ったとしても、激しく損傷している遺体は少なくなかった。

火葬前にきれいな姿で送り出したい……遺体確認した娘を母親に会わせる前に、復元して出会い直してもらいたい……。

そんな要望に応えることができるのは復元納棺師だけだった。岩手県北上市で納棺事業会社「桜」を経営する笹原留似子は、震災発生以降、約300体の遺体復元に携わった。

3月21日、被害が大きかった陸前高田市を訪れた笹原は、津波で亡くなった少女の遺体に向き合っていた。

毛と毛の間に砂がこびりつき、貝の破片や藻が絡みつく黒髪を何度も洗ってきれいにし、陥没して変色した眼球を元の状態に戻し、マッサージを繰り返して頬を柔らかくしたうえで、口内リンパマッサージで口を自然に閉じさせる。ファンデーションやつけまつげなどを復元専用の使用法で1か所ずつ丁寧に施すと、眠っているかのような「元の少女」となった。

遺体安置所でふくれあがった顔が緑色と黒色に変色したり、崩れたりして、「元の顔」がわからない状態の遺体も、笹原の手にかかれば限りなく震災前に近い姿を取り戻すことができ、家族は悲しみに暮れながらも心穏やかに別れが告げることができた。

清月記の面々や笹原と同様、僧侶や神主などの宗教者、火葬場の職員らもまた、震災に立ち向かった。特筆すべきは、彼らが従事したのは、生業の「弔い」に関連する業務に限らなかったことだ。

高台にある石巻の洞源院、東松島の定林寺、気仙沼の浄念寺や八幡神社などは避難所として開放され、創価学会や立正佼成会も教団施設に被災者を受け入れた。

仏教宗派の浄土真宗、浄土宗、曹洞宗、天台宗、真言宗などは、それぞれが災害対策本部を設置し、避難所となった寺院を中心に、支援物資の配布や炊き出し、ボランティアの派遣などを行った。日本基督教団傘下の教会、神社本庁傘下の神社も同じである。

天理教、真如苑なども阪神・淡路大震災での経験を生かした被災地支援活動を展開した。個別に現地に入り「読経ボランティア」を行う僧侶も多かった。「葬式仏教」「カネ儲け宗教」などと揶揄もされるが、未曽有の災害に直面したとき、人々を救済すべく立ち上がったことは忘れてはならない。

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