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【骨になるまで・日本の火葬秘史】東日本大震災の犠牲者を送った「弔い人」の記録

プロとして「早く火葬したい」気持ちは痛いほどわかった

しかし、葬儀業者や宗教者が一丸となってなお、犠牲者は増え続ける。加えて、繰り返される仮埋葬と掘り起こしで現地は混乱の一途を辿り、支援要請は東京に及んだ。

宮城県警本部から火葬場運営会社「東京博善」の四ツ木斎場(葛飾区)にSOSの電話が入ったのは、3月21日の深夜だった。対応に当たった元常務の川田明が言う。

「電話を受けたのは、夜勤に入っていた宿直担当者でした。翌日報告を受けて、私が県警に連絡したんです。すると『遺体がたくさんあるが、現地の火葬場はひどい損傷を受けている。そちらで火葬できるか』ということでした。なかには『検死して遺族と連絡を取ろうにも身元不明で連絡が取れない遺体』もあるという。

火葬炉に余力があったので、火葬すること自体に問題はなかったが『搬送はどうするのか』と聞くと、『生存者の捜索などで車両も燃料もままならない。遺体をこちらに引き取りにきてもらえないか』という要請でした」

交通網が至るところで遮断され、燃料供給もままならない地に遺体を引き取りに行くというのだから難題である。金銭的・物理的な負担も決して少なくない。ただ、プロとして「傷んだ遺体を早く火葬にしたい」という要請が現地から来ることは予想できた。また、大惨事を目にして「何かやらねば」という思いもあった。

そこで社内で論議を重ね、東京都から「事業」として支援を受けた東京博善が、遺体搬送車両の製作と搬送業務を委託受注するスキームとなった。

まず行ったのは大型トラックを調達し、多くの遺体を運搬できる仕様に造り替えることだった。その結果、4tロングのトラックなら24体、普通型なら18体の遺体を運ぶことが可能となった。4tロング1台の改修と陸運局への届け出が完了し、宮城県に出発したのが4月11日、続いて2日後に普通型2台が出発した。

引取先は石巻市の遺体安置所となっている旧石巻青果市場。3台のトラックで1日最大60体の遺体が運ばれ、四ツ木斎場隣接のお花茶屋会館に安置された。

棺は内部で水を含み、砂が混じって相当な重量があった。底抜けや液体漏れの恐れがあるため、積み下ろしや運搬は慎重に行われた。

「ご遺体は収容されたときと同じ裸です。泥は落としていますが清拭までには至らず、白布がかけられていました。

ヘドロ状の海水を飲んでおられますので、炉床と呼ばれる炉の下の方からお骨と一緒にたくさんの砂が出てくる状態でした。ご遺体は傷み、激しい臭気もありましたが、燃焼時に煙や臭気を取り除く装置やノウハウを持っていたので、それらの問題が出なかったのは幸いでした」(川田)

遺体の搬送は4月24日まで行われ、翌25日までに579体が火葬された。拾骨は現地の市町村職員が立ち会って遺骨は桐箱に入れられ、6個単位で江戸藍染めの風呂敷に包んで安置。4月27日、トラックで現地の遺体安置所などにまとめて届けられた。

多くの犠牲者を生んだ惨事に、僧侶や葬祭業者や火葬場関係者が立ち上がり、「故人の尊厳」を守ろうとしたことは、震災が我々に残した教訓とともに長く語り継がれるべきだろう。
(文中敬称略)

【プロフィール】
伊藤博敏(いとう・ひろとし)/ジャーナリスト。1955年、福岡県生まれ。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件をはじめとしたノンフィクション分野における圧倒的な取材力に定評がある。『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(小学館)、『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)など著書多数。

※女性セブン2024年7月11・18日号

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