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【骨になるまで・日本の火葬秘史】日本古来の「ケガレ」の概念が「キヨメ」の文化を生んだ

「清めの塩」のルーツは弥生時代に
「清めの塩」のルーツは弥生時代に(写真/PIXTA)
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【女性セブン連載『骨になるまで 日本火葬秘史』第4回】縄文時代、墓は人々の生活の中心地として鎮座していた。私達はいつから「死」を清めるべきもの、墓を生活から遠ざけるべきものとして認識し始めたのか。ジャーナリストの伊藤博敏氏が、いまの「弔い」のルーツを、その担い手にスポットを当てながら振り返り、レポートする。

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“日本最古の墓“は閑静な住宅街に、突如として現れるーー。

都内で唯一、見学が可能な環状積石遺構(ストーンサークル)は、町田市の多摩境駅に近い多摩ニュータウン通り沿いにある。

いまも見学が可能なストーンサークル。縄文時代は「生活の中心」だった
いまも見学が可能なストーンサークル。縄文時代は「生活の中心」だった
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なだらかな丘陵に帯状に積み上げられた東西約9m、南北約7mに大小の自然石。その下には30基ほどの墓跡があるという縄文時代の集合墓地は、いまから3500~2800年前に造られた。

町田市にあるストーンサークル「田端環状積石遺構」の案内板。
町田市にあるストーンサークル「田端環状積石遺構」の案内板
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墓であると同時に祭祀場でもあり、冬至にはサークルの長軸の延長線上にある丹沢山系最高峰の蛭ヶ岳に太陽が沈む。縄文時代はストーンサークルを中心にして部落が形成された。死者も含め、万物に精霊が宿るとするアニミズムが支配していた縄文時代、生きている人間と死者の境界は曖昧であり「遺体」や「墓」も生活の一部として存在していたのだ。

 

 

やがて本格的な農耕が始まる弥生時代になると、居住空間と墓地は明確に区分され、墓地は集落の外側に移動する。

古代から近世の習俗、葬送、差別問題に詳しい東日本部落解放研究所副理事長の吉田勉氏は、それを「墓地の外部化」と呼び、そこに穢れ(ケガレ)の発生を見る。

「狩猟の縄文時代は外部に開かれた世界。それに対して農耕の弥生時代は内部に囲い込む。コントロールできない外部は、大自然の驚異も人の死もすべて怖い。そこから『ケガレ』の概念が発生し、排除の論理が生まれました」

弥生時代の到来とともに生まれた「死者や死骸をケガレとする概念」は、葬儀の後に清め(キヨメ)の塩が配られることなどからもわかるように、現代の社会においても色濃く残っている。

しかし、どんなにケガレとして遠ざけたとしても、遺体にしかるべき処置をして、墓に葬る行為が無くなることはないし、無くすこともできない。

古記事に描かれたウジが湧いたイザナミの姿

吉田によると、弥生時代末期の日本の社会状況を伝える『魏志倭人伝』に「死の穢れ」が描かれているという。それは次の場面だ。

《喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。巳に葬れば、挙家水中に詣りて噪浴し、以て練沐の如くす》

喪主は泣き叫び、他の人々は喪主に従って歌い舞い、飲酒する。やがて葬り終えると、家を挙げて水中に詣で、沐浴して体を洗い、清める――。

歴史的資料としての正確さには疑問が残るものの、弔いの後に禊を行う文化が宗教の伝搬や『古事記』の描く神話より前にケガレが発生し、それをキヨメる文化があったことは間違いない。

日本最古の歴史書と言われる『古事記』でも、死者の姿は「ケガレ」として描写されている。

“国生みの神”として知られる男性神イザナギと女性神イザナミの「黄泉の国伝説」である。

四国、九州、本州などを造った夫妻は、さらに土、海、山などの神も創出し、最後に火の神を産んだイザナミは、火傷を負って命を落とす。悲しみに暮れ妻を忘れられないイザナギが、追っていった黄泉の国で見たのは、腐敗してウジが湧く変わり果てたイザナミの姿だった。

古事記が編纂されたのは、女帝・元明天皇時代の712年。仏教伝来からすでに百数十年が経過し、律令政治のもと天皇支配が確立すると、朝廷は「神事における神道」と「信仰における仏教」をうまく使い分け、「神」と「仏」を融合させて扱う「神仏習合」のもと国家を支配していた。

死を穢れとする「死穢」の世界観は神道のものであり、仏教にはない。

しかし、仏教は布教のため巧みに神道の考え方を取り入れたので、日本における「ケガレ」の概念は宗教的な抑圧を受けることなく、朝廷によって細かく規定され、独自の発展を遂げていった。律令の施行細目をまとめた法典の格式『延喜式』は927年に編纂されたが、その細かい制約に驚かされる。

ケガレとされるものは、人の死と出産、六畜(馬、羊、牛、犬、豚、鶏)の死と出産、肉食、改葬(墓の移動)、流産、懐妊、月経、失火、埋葬などである。人はケガレに触れると一定期間、身を慎まねばならなかった。人の死は30日、産は7日、六畜の死は5日と定められていた。

朝廷が神経質とも言えるほど徹底してケガレを忌避した背景には天皇を「清浄なもの」として奉り、浄化を保持するという意図があった。天皇の和語は《すめらみこと》であり、「一点の穢れもない」「この世で最も清浄」といった意味合いを持っている。

一方、延喜式が規定する殿上人の暮らしとは関係のない庶民の間では、死後は「現世」の先にある「常世」だった。そこは生まれ変わりの世界であり、遺体をケガレとして遠ざける風潮はそれほど強くなかったという。前出の吉田が解説する。

「古墳時代の葬送は、死者を舟形の棺に葬り、他界(常世)に送るという形を取っていました。死者は常世で生まれ変わり、永遠の生を得るものと観念されていた。ですから死者の魂と死体は一体のものであり、死体を損壊してはならなかったのです」

しかし、そうした「霊肉一体の原則」は鎌倉仏教がもたらした浄土思想の普及で崩れていく。学術的で難解であり、信者の多くが貴族だった奈良~平安時代の仏教に対し、念仏さえ唱えれば極楽浄土に往生し、成仏できると説く法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗に代表される新興の鎌倉仏教は、武士から農民まで幅広く信者を集めた。

浄土思想では、極楽浄土を信じて念仏を唱えるその魂にこそ価値がある。一方、滅んだ肉体は骸であり、ケガレとして処分して構わない。

庶民の間においても遺体をケガレとして扱う風潮が浸透したことに加え、親鸞が火葬を奨励したことにより、浄土真宗の信者が多い北陸などでは鎌倉、室町時代から火葬が盛んになった。

葬送において一大勢力を形成

神話の時代に日本に生まれたケガレの概念は、キヨメの文化を生むとともに、それらの担い手に対する差別も生み出したことは、葬送の歴史を考える際、忘れてはならない事実だ。

「京都を中心とした貴族社会をメンテナンスするために、死体の処理をする非人が必要でした。それに浄土系の地区や京都、大阪の街中では火葬が増えて非人の仕事も増えた。火葬場で遺体を処理する非人は『三昧聖』や『隠坊』と呼ばれました」(吉田)

三昧とは仏教用語で火葬場を意味する。そのような死穢に関わる非人は、地域ごとに名称や役割が変わった。例えば14世紀の『鶴岡事書日記』には鎌倉の鶴岡八幡宮のキヨメ役を「犬神人に命じる」と記述されている。京都の祇園社(現八坂神社)に属して境内や市中の不浄物の片付けを行っていた非人も犬神人である。

京都の鳥辺野などで葬送に従事していた人々は「坂の者」あるいは「坂非人」と呼ばれていた。11世紀には『小右記』など文献にその名が登場するが、なかでも「清水坂非人」と呼ばれる集団は、葬送において一大勢力を形成し、江戸時代になってもその強い権限(葬送権)が保持されていた。

御清めの塩
御清めの塩(写真/PIXTA)
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動物の死穢においても人間同様、担い手は限定されており、死んだ牛や馬を扱うのは「穢多」と呼ばれる被差別民だった。穢多は死牛馬取得権を生かして牛や馬を解体処理して皮革製品などを製造し、それなりの収入を得ていた。

徳川将軍の側近は火葬の臭いを嫌って遠ざけた

弥生時代に誕生したケガレの概念は、神道、仏教、天皇制などさまざまな思惑をはらみつつ、キヨメ役を被差別民に担わせてきた。

江戸時代に入ると葬儀に伴う秩序を保つため、その手順や役割はさらに固定化されることとなった。しかしそれは、江戸の街の中心地から弔いの担い手の姿を遠ざけることと同義でもあった。

幕府はまず刑場を移転させた。刑罰を与えるという意味で「仕置場」と呼ばれる刑場が江戸に2か所あったが、本材木町(現中央区)の仕置場は品川宿の外側の鈴ヶ森(現品川区)へ。浅草鳥越際(現台東区)の仕置場は寛文7(1667)年、千住宿の内側の小塚原(現荒川区)に移転した。

その2年後、今度は19か所あった遺体を焼却するための施設である「火葬寺」もまた、刑場と同じく小塚原に一町四方の土地を与えられて移転した。4代将軍徳川家綱が上野寛永寺に墓参した際、東風に乗って寛永寺に及んだ下谷、浅草付近の火葬寺が放つ臭気を嫌った家綱側近の措置だった。

刑場跡地には浄土宗豊国山回向院が立つ。刑場は町奉行が行う獄門、磔、火あぶりなどの刑罰を執行する場所であるとともに刑死者や行き倒れ人などを埋葬して供養する場でもあった。その埋葬供養が回向院の役割だった。刑場移転とともに開創され、明治初めまでの220年余に埋葬された人の数は20万人以上だという。

吉田松陰も回向院に弔われた
吉田松陰も回向院に弔われた(写真/AFLO)
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水野佳昭住職が説明する。

「重罪者や刑死者だけでなく、幕末には国事犯(政治犯)の埋葬も行われるようになり、吉田松陰、橋本左内など多くの幕末の志士が眠っています。ただ、20年近く前に事業として改葬整理したため墓の場所は変っています」

刑場作業の統制は江戸の非人が取っていた。関東の被差別民は上下関係が厳格であり、被差別民のトップに立つのは穢多頭・弾左衛門で、その下が非人頭の善七だった。小塚原刑場を差配したのは善七配下の小屋頭・市兵衛で、受刑者の世話や刑執行にあたっての雑務、埋葬処理を担った。

刑場における「弔い」は土葬がほとんどだったが、身分がある人は火葬寺でお骨にして埋葬することもあったという。火葬寺群は明治10(1877)年、共同火葬場となった後、明治20年に日暮里に移された。火葬寺群と至近距離にあるのが曹洞宗円通寺。791年、坂上田村麻呂によって開かれたという寺伝を持つ。乙部活機住職が、火葬寺の頃の話を伝え聞いていた。

「19の火葬寺の外観は大屋根の下に数寄屋造りで、現代で言えば海の家のような仕切りのない大広間があり、外で火葬している間はそこで飲酒などをしながら待つ、というイメージを持っていただけたらわかりやすいでしょうか」

僧侶がいるわけでも、お経が読まれるわけでもない。骨にするのに徹した設備だった。

頓死した大男の遺体を兄弟分の無頼漢が運ぶという筋書きの古典落語「らくだ」にも、当時の火葬寺の雰囲気を伝える一幕が残る。

「おれの友達が落合で隠坊してんだ。あいつンとこ行って焼いてもらっちゃうから。以前屑屋してた野郎だけどな、そいつンとこ行って、焼いてもらっちゃうから。心配することはねえよ」

死=遺体への敬意は微塵も感じられないが、火葬による遺体処理システムができあがっていたことが示されている。

しかしそのシステムは、明治維新の混乱のなかで失われる。明治6(1873)年の火葬禁止令である。神道や儒教の信奉者の間で「残酷な異国の葬法」である火葬への忌避感が拡がり、国家神道の動きに連動して「火葬禁止」の太政官布告となった。

だが実際には土葬は面積を取るゆえに墓地は手狭になって高騰し、火葬が感染症対策にもなるという衛生上の観点もあって、わずか2年後に禁は解かれた。それに伴い東京府は、砂村、桐ヶ谷、代々木、落合、千住の5か所を火葬地に指定した。

大森貝塚を発掘したことで知られるE・S・モース(当時・東京大学教授)は、明治15年に千住火葬場を訪れた。残されたスケッチには、れんが平家建てで長さ23m、幅7mの火葬場が2棟一列に並び煙突が立つ様子が描かれている。

「維新」に相応しい構築物に変化を遂げようとしていた火葬場の発展を、さらに後押ししたのは、「食肉」と「火葬」という2つのタブーに挑戦した明治の政商だった。

(文中敬称略)

【プロフィール】
伊藤博敏(いとう・ひろとし)/ジャーナリスト。1955年、福岡県生まれ。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件をはじめとしたノンフィクション分野における圧倒的な取材力に定評がある。『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(小学館)、『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)など著書多数。

※女性セブン2024年7月25日号

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