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【骨になるまで・日本の火葬秘史】東京の火葬場の礎を築いた明治の政商

「日本警察の父」である川路は、公衆衛生の管理にも尽力した
「日本警察の父」である川路は、公衆衛生の管理にも尽力した(写真/AFLO)
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【女性セブン連載『骨になるまで 日本火葬秘史』第5回】江戸から東京へ。急速に人口密度を高めていた明治日本の首都を、コレラの蔓延が襲った。遺体の埋葬は滞り、腐敗が進み、さらに感染は広がる。「早急に火葬場を近代化せねばならない」――ある剛腕実業家が「嫌われる場所」の改革に立ち上がった。ジャーナリストの伊藤博敏氏がリポートする。

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ランニングや腕立て伏せで体力を培った後、息つく暇もなく犯人確保のための逮捕術や鑑識の方法を学ぶ。ときには怒号が飛び交うほど厳しい訓練を、志を同じくした仲間とともに耐え抜く――木村拓哉(51才)が主演して大きな反響を呼んだドラマ『教場』シリーズ(フジテレビ系)は警察官の「学習現場」をリアルに伝えてヒットした。

今年、創立150年を迎えた警視庁の警察学校(東京都府中市)の敷地内には「移動の際に歯を見せること」を禁じられた神聖な場所がある。初代大警視(警視総監)・川路利良の銅像が立つ「川路広場」だ。

川路は明治5(1872)年、政府の指示で欧州の警察制度を視察。市中を巡回して国民の生命・財産を守るパリ警視庁の「ポリス」を模範する警察機構を日本に築いた、謹厳実直な「日本警察の父」である。警察官の卵たちは世紀を超え、《声無きに聞き、形無きに見る》といった川路の訓示を集めた『警察手眼』などで警察官としての心得を学ぶ。

警察官たるもの声なき声に耳を傾け、奥に隠されたものを見逃さず、真実を暴き出せ――。

警視庁が設立された当時、日本ではコレラが蔓延。そのため警視庁は公衆衛生の管理も担うことになり、川路は病気から国民の安全を守るためにも奔走した。

そこに喰らいついたのが、商人の木村荘平だった。東京市議会議員や東京商工会議所議員など無数の肩書を持っていたが、生涯を通じて遂行した事業は「食肉」と「火葬」に帰結する。

 明治時代「肉食」は急務だった

薩摩藩の下級武士だった川路は、慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いで手柄をあげ、西郷隆盛、大久保利通にその名を知られると、兵器奉行に抜擢される。明治4(1871)年、西郷が特権を失った武士を救済しつつ東京の治安を守る目的で、邏卒(警察の前身)を組織化すると、川路はその邏卒総長に就任。3年後、東京警視庁が創設されるとトップの大警視を任された。

一方、力士・小野川秀五郎の弟子になるほど巨漢だった木村は、相撲取りの夢は挫折したものの、機を見るに敏な性格で商いの道に進む。幕末には薩摩藩出入りの商人となり、川路が名を上げた鳥羽・伏見の戦いの際は御用係を務めるなどして薩摩に食い込んだ。

そうした人間関係が日の目を見ることになったのは明治11年、川路の後ろ盾であった大久保利通・内務卿が暗殺され、大久保が進めていた官営の「動物育種場」(馬や牛を改良する場所)、「動物市場」(諸獣屠殺場)の設立計画が宙に浮いたからだ。

権利関係が複雑なこの分野を任せようと川路が招請したのが、当時神戸で旅館や製茶貿易などを営んでいた木村だった。

江戸時代の平均身長は男が約155cm、女が約145 cm。殺生を禁忌とする仏教の影響で、天武天皇が675年に発布した「食肉禁止令」に基づき、日本では1200年にわたって牛や馬、鶏などの肉を食べることが公には禁じられてきた。たんぱく質不足が日本人の体格を制限していた。

そのため大久保ら政府首脳にとって、食文化を見直し、牛乳や牛肉を摂取させて日本人の体格を向上させることは、強い国家をつくるうえで急務だった。だが、日本に食肉産業はなく、死んだ牛馬の解体処理は「斃牛馬取得権」といって穢多と呼ばれる被差別民のものだった。

明治4年、穢多、非人といった呼称を廃し、身分職業とも平民と同じにするという「解放令」が発令された。それにより、関東では、斃牛馬は穢多頭・弾左衛門をトップとする統制経済のなかにあったが、その権益は失われた。それでも、ゆるやかに血を抜き、皮や内臓に分離させ、肉の鮮度とおいしさを保つ技術は被差別民のものであり、旧町人の屠牛商人と旧賤民の解体業者が集荷、屠牛、解体、流通を担うようになる。

その食肉産業をシステム化し、さらに官僚統制下に置こうとしたのが警視庁だった。

警視庁は明治10年、食肉の流通を近代化させつつ警視庁の権益も拡大させる意図から、屠場を直轄に置く。実現するために屠牛商人などとの調整役が必要となり、川路が頼ったのが辣腕の木村だった。

木村は八面六臂の活躍を見せる。明治12年、屠場と同時に、三田四国町の4万5000坪もの動物育種場の払い下げを受ける。翌13年には興農競馬会社を設立し、三田の広大な土地で競馬を行って人気を集めた。明治天皇も5回臨席し、幹事長(社長)には西郷従道(隆盛の弟で元内務相)などの大物を据え、実務は幹事長代理の木村が担った。

加えて三田育種場前では明治14年6月、「いろは」を開店。屠肉の販売を始め、翌年には「牛鍋」を売り物にして繁盛する。店を切り盛りしたのは妻のまさだった。木村は神戸からまさと長女の栄子を伴って上京。屠場を管理する木村からの安くて旨い肉の提供、商売上手なまさの客あしらい、政府主導の牛肉ブームなどが重なってピーク時には21店舗をチェーン展開した。各店に愛人を「御新さん」と呼んで置き、その数は“20人に達した”という。

妾の数は半ば伝説だが、子供が30人いたというのは事実のようだ。長女栄子は18才で「讀賣新聞」に連載小説『婦女の鑑』を発表した女流作家の草分け的存在の木村曙で、他にも作家の木村荘太、画家の木村荘八、直木賞作家の木村荘十、映画監督の木村荘十二など芸術家が少なくない。

荘平の息子であり、画家として活躍した木村荘八。父の荘平はエネルギッシュな事業家であった半面、父としては“稼げば何でも許される”と思う明治男の典型だった
荘平の息子であり、画家として活躍した木村荘八。父の荘平はエネルギッシュな事業家であった半面、父としては“稼げば何でも許される”と思う明治男の典型だった(写真/AFLO)
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 必要なのに「嫌われる場所」

食肉と時を同じくして川路が木村に託そうとした事業が、火葬場だった。弔いの主流が土葬から火葬へ移り変わっていくに比例して、臭いや害のハレーションも増えていく。

明治政府にとって、火葬寺の火屋で行われてきた火葬を、建屋と火葬炉を近代化させて無臭無害化を進めることは急務であり、明治11年、火葬場の行政権は東京府から警視庁に移管された。同年8月、川路はさっそく火葬場、墓地、死牛馬処理場などにコレラ対策の指示通達書を出した。「火葬場を充実させたい」と木村に相談したという。

だが、それが実現するのは少し先の話になる。育種場と屠場を手掛けていた木村は多忙を極め、頼みの川路は明治12年1月から2度目の欧州視察に出かけ、パリで病に伏せった。帰国したのは10月8日だが、その6日後に永眠。46才の若さだった。

しかしどん欲なビジネスマンである木村にとって、火葬場は魅力的だった。屠場同様、必要なのに「嫌われる場所」だからだ。

とりわけ明治19年に起きたコレラの大流行により、遺体の火葬が渋滞し、処置に混乱をきたし感染が多発したことでその風潮はいっそう強くなった。批判を受けた政府は火葬場取締規則を改正し、操業時間は日没から翌朝日の出までに限定すること、火葬炉の数や煙突の高さを揃えること、人家から約200m隔てることなど火葬場の建設や運営に規制をかけた。

その結果、当時、千住・砂村新田・桐ヶ谷・落合・代々木の5か所だった火葬場の数が8か所に増えるとともに、人家に近く、人口密集地にあった千住の火葬場は移転を余儀なくされる。

そこにおっとり刀で駆け付け、移転先探しに奔走したのが木村だった。

難航を極めた末、明治20年6月、日暮里への移転の許可が下り、それを運営するため、木村荘平を頭取として「東京博善会社」が設立される。7月12日、本社が置かれた東京府芝区の区長宛てに出された「創立証書」では、その趣旨が次のように述べられている。

《水葬、林葬は近頃、行われていない。土葬は広い墓地面積を必要とする。墓地用地が不足するのは必定で、今後、火葬が盛んになるのは自然の勢いである。しかし現行の火葬場は構造が粗悪で臭気汚物を四方に散乱している。

この欠点を改善、完全なる築造方法によって第一等の火葬場を建設し、衆人の便益を図り衛生の害を防ぎ、国家の為に尽くす》

高い志のもと、衛生面にも配慮した運営が示唆されるが、それでも地元の日暮里村、風下にあたる金杉村から反対運動が起き、請願書が出された。流行病の際に死体運搬の経路にあたることへの嫌悪、火葬に伴う臭気、火葬場が近くにあることへの不快感と他地区からの蔑視などで、現在の火葬場反対理由と変わらない。

加えて当時の火葬場への批判は、新聞が大きく報道するなどして社会問題化することが少なからずあった。そこで東京府は、設置を許可する前に常置委員会への諮問を義務づけた。建議に至った理由として「火葬場を設置することはその近辺の住民に財産上並びに精神上に影響を及ぼすことが多大」と書かれている。

木村荘平の墓は「墓じまい」された

そうした変遷を経て、明治21年12月時点の火葬場の位置は、桐ヶ谷、代々木、落合、町屋、荻新田の5か所に減った。新築の日暮里は、反対運動が強かったうえに将来、周辺が繁栄地になる見込みがあるという理由から町屋への移転が決議された。

多額の設備投資を行ったうえ移転費用も自己負担になるため、現実に町屋に移転したのは16年後の明治37年だった。起業家として大きな痛手を負ったともいえるが、木村の火葬場への意欲は変わらないどころかむしろ増していき、明治26年には落合、代々木、亀戸、荻新田などの火葬場を次々に買収し、東京のトップ企業になった。いまでいうM&A(企業の合併・買収)戦略だ。

もともとそれらの火葬場は江戸時代から続く寺院の荼毘所で、無臭無害の近代的な火葬場に改修するのは資金的に難しかったのだ。

木村荘平の胸像はいまも町屋斎場を見守っている
木村荘平の胸像はいまも町屋斎場を見守っている
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火葬場に詳しい武田至火葬研会長が解説する。

「火葬場取締規則の改正によって火葬場の位置や構造が明確に記され、東京府下の火葬場はそれに準じた構造にしなければならなくなりました。火葬場内の排泄物焼却場の構造も明記された。コレラ対策に対応する施設を東京博善も明治20年に建設しており、この時期を境に火葬炉設備もさらに開発が進んでいったものと思われます。そうした状況のなか、東京博善が経営の芳しくない火葬場を次々に買収したことで、府下の火葬場は大きく近代化したのです」

「食肉」と「火葬」―政商として人が手を出さない分野で成功を収めた木村は、明治29年に市会議員となった。しかしその後、三田四国町の所有地は、突然海軍に接収され、三田育種場での競馬も富くじ入場券の規制強化で急速に衰退し、終了する。

与えられていた屠場の権益も藩閥政治批判のなかで取り上げられ、木村は明治23年以降、一介の食肉業者となった。それでも新たに品川の芝浦で発見された鉱泉を利用した保養施設を建設、「芝浦館」「芝浜館」と名付けるなど事業意欲は引き続き旺盛だった。

市会議員となって名誉と権力を得たが、息子の木村荘八は回想録で「(30年代半ばの)老舗料亭の買収失敗あたりから事業は下り坂だった」と記している。

明治39年に入り、歯が痛み出した木村が帝大病院を受診したところ、「顎癌」と診断され、同年4月27日に急死。66才だった。

遺言も何も用意されておらず、家業を継いだのは長男の荘蔵である。だが、厳格な父の枷が外れた荘蔵は遊興三昧に走って散財を繰り返し、あげく明治44年には不渡り手形を出して全財産を失い、木村家は没落の一途を辿る。

木村は港区高輪・正覚寺の用意した墓に弔われた。円筒形のユニークな墓石だったが、いまはない。

「平成25(2013)年を最後に継承者の方と連絡が取れなくなりました。墓じまいは昨年10月に行っています」(正覚寺住職)

現在は長女の曙らと共に合葬墓に移されている。日本葬送文化学会の長江曜子会長は、その皮肉をこう語る。

「曙は英仏語に堪能な才女でしたが、家父長制の強かった時代だけに父・荘平の反対で留学の夢は叶いませんでした。20才で早世した曙が長い時を経て、かつて複雑な思いを抱いたであろう荘平と共に、墓じまいがブームとなっているいま、合葬墓に入れられました。当時、火葬の近代化によって時代を牽引した木村はいまも時代を映す鏡であり続けている気がします」

一世を風靡した木村だが、現在残るのは町屋斎場に置かれた胸像と、本店があった三田にある「いろは通り」の名前だけである。

(文中敬称略)

【プロフィール】
伊藤博敏(いとう・ひろとし)/ジャーナリスト 1955年、福岡県生まれ。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件をはじめとしたノンフィクション分野における圧倒的な取材力に定評がある。『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(小学館)、『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)など著書多数。

※女性セブン2024年8月1日号

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