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【骨になるまで・日本の火葬秘史】仏に敵味方なし――宗教経営のもとで発展した

日綱が住職を務めた妙香寺は「君が代の由緒地」としても知られ、記念碑が建てられている
日綱が住職を務めた妙香寺は「君が代の由緒地」としても知られ、記念碑が建てられている
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【女性セブン連載『骨になるまで 日本火葬秘史』第6回】明治時代、豪腕経営者の手によって整備が進んだ東京の火葬場は、大正に入ると、近代医学の礎を築いた名医の手にわたる。営利から社会貢献・宗教精神の発揮へ──火葬事業は震災や戦火をくぐり抜け、時代とともに理念を変化させながら技術も規模も次第に進歩させていく。ジャーナリストの伊藤博敏氏がリポートする。

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日本の医学は、明治時代に築かれ、新しい時代の息吹とともに大きく発展した。欧州から外科手術の技術が取り入れられ、政府は明治7(1874)年、ドイツ医学を主軸とする西洋医学に基づく医術試験と医業開業許可を制度化する。激動の時代に、伝染病対策に貢献した北里柴三郎や赤痢菌を発見した志賀潔など多くの“名医”が活躍したが、そのうちのひとりが、東京慈恵会医科大学初代学長で「耳・鼻・のど」に関する治療を行う科に「耳鼻咽喉科」の呼称をつけた医師の金杉英五郎である。

慶応元(1865)年、千葉県に生まれた。幼少の頃から頭脳明晰で、明治20年、帝国大学医科大学を卒業後、ドイツに留学して病理学、耳科学、鼻咽喉科学などを学んだ。

明治25年に帰国すると、慈恵医大附属病院の前身となる「東京病院」で診療を開始。医師としての評価を高め、耳鼻咽喉科会を結成して会頭となる一方、大正6(1917)年に衆議院議員となり、同10年に東京慈恵会医科大学初代学長に就任した。

創業社長・木村荘平の意欲的な経営によって東京の火葬業をリードしてきた「東京博善」だが、木村の死後、業績は急速に傾いていく。その立て直しを託されたのが、金杉だった。

金杉が社長に就任した大正10年当時、保有していた火葬場は町屋(日暮里を併設)、砂村(亀戸を併設)、落合、代々幡の4か所だった。浅草倶楽部で開催された株主総会で旧会社は解散し、営業権や設備をすべて譲渡される形で同日、現在まで続く東京博善株式会社が設立された。

『東京博善50年史』は、金杉の役割をこう伝える。

《氏は当時の一般社会が火葬並びに火葬場を軽蔑し、従業員を劣等視するという封建思想を打破するために自ら率先して東京博善株式会社社長となり、環境衛生医学の立場より燃料研究と無煙無臭火葬の実現を期し、且つ社会施設としての火葬場の尊厳な使命を強調したのである》

火葬場や葬送専門職への差別意識はなかなか払拭されない。東京博善は再出発にあたり、火葬場の地位向上のために堂々とした看板を求め、公衆衛生の向上を訴えてきた金杉が意気に感じ、それを引き受けた――。

実際、金杉家は祖父の代から儒学思想を軸に国学・史学・神道を結合させた「水戸学」に傾倒し、金杉自身も忠君愛国、尊皇思想を持つ国士だった。昭和3(1928)年の義公(水戸光圀公)生誕300年祭では発起人を、上海事変(昭和7年)で点火した爆弾を抱えて敵陣を突き崩すため、鉄条網に突っ込み命を落とした「爆弾三勇士」の銅像を建立する際には、銅像設立委員長を務めた。

このように金杉は社会的意義のある行事やそれに伴うポストは積極的に引き受けてきた経緯があり、東京博善の経営もその一つだったと言えるだろう。

ただ「金杉時代」はそれほど長く続かない。転換点は大正12年9月1日に東京を襲った関東大震災だった。200基を越える火葬炉が破損し、会社の施設も甚大な被害を被った。壊滅的な状況の中、社員は都内に数か所設置された臨時火葬場で犠牲者を弔うための火葬奉仕活動を行った。

翌年末の株主総会で株主構成が変わり、宗教色が濃くなった結果、仏教界から3人が役員として迎え入れられることになる。日蓮宗法華経寺貫首で横浜・妙香寺住職の宇都宮日綱が取締役に、日蓮宗堀之内妙法寺住職の藤井教詮と浄土真宗赤羽山法善寺の中山理々が監査役となった。

「怨親平等」の思想のもと宗教経営を続けた中山理々
「怨親平等」の思想のもと宗教経営を続けた中山理々
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金杉は顧問に退き、東京博善は「営利企業ではなく宗教精神を発揮する会社に」という方針も定まって、大正15年には宇都宮社長、中山常務、藤井監査役の体制となる。同時にこの3家の株式保有割合が最も多くなり、東京博善は名実ともに「宗教経営」となった。

葬儀業のルーツは「桶屋」にあった

宇都宮日綱が住職を務めていた妙香寺は、横浜市山手の観光客で賑わう「元町・中華街」の徒歩圏内にあり、「国歌の由緒地」「日本吹奏楽発祥の地」としても知られている。日本最初の吹奏楽団であり「君が代」を最初に演奏したという、薩摩藩で結成された「薩摩バンド」が英国公使館付軍楽隊長のフェントンに師事した際、宿舎として使用したことが由縁だ。

日綱が社長となって最初に行ったのは、大正15年3月の「春季彼岸供養会」である。各火葬場で火葬された物故者の供養を、導師を招き、役員・従業員一同が列席のもとで執り行う行事であり、町屋斎場で行われた。その後、恒例行事として毎年春秋2回、各火葬場が持ち回りで実施することになり、現在に至る。

令和6(2024)年3月6日、四ツ木斎場で「第199回春季彼岸供養会」が行われた。導師は柴又帝釈天題経寺の岡崎文行上人だった。

宗教経営の安定に伴い事業も軌道に乗り、昭和に入って2つの火葬場が加わった。昭和2年、東京府亀有に火葬場を持つ株式会社天親館を合併して四ツ木火葬場とし、昭和4年には桐ヶ谷火葬場を運営し、同時に葬祭業も担っていた博善株式会社を吸収合併した。

その際、昭和5年1月、神田鎌倉町に「葬儀相談所」が設けられ、葬儀部門が「博善」として分離されることになった。

少しややこしいので、現在、博善株式会社で代表を務める藤井城に解説してもらった。城は新東京博善で監査役となった教詮の孫にあたる。

「葬儀業のルーツは桶屋にあるそうです。江戸から明治にかけての葬儀は“町内会の手を借りつつお坊さんを呼んで喪家が自ら行う”というスタイルで行われており、その際、棺桶を作って提供する役割を担っていたのが桶屋だった。

その棺を作るのに、鎌倉町は便利だった。日本橋川が引き込みになっていて水運がよく、材木を運ぶのに適していたのです。そこで棺桶や、宮大工を呼んで祭壇を作るようになり、やがて昭和に入ると町内互助組織でやっていた葬儀を、葬儀業者が事業として行うようになりました」

昭和初期にはもうひとつ変化があった。石炭から重油への燃料変化による火葬機能の向上であり、それに伴って昼間の火葬が許可された。かつては臭煙を嫌われて人通りのない夜に火葬して、翌日の昼間に拾骨、メンテナンスをして、また夜になったら火葬するというサイクルで運営せざるを得なかった。それが重油火葬炉の導入によって煤煙をさらに燃焼させ、臭いが出ない状態で火葬することが可能になったとして、警視庁から昼間火葬の認可を得た。

この重油火葬炉は、昭和2年の町屋を皮切りに、代々幡、落合、桐ヶ谷、砂村、四ツ木と拡がっていく。それによって葬儀の形式は通夜と翌日の告別式、火葬の後、拾骨という現在の形態となった。

亡くなったら敵も味方も「仏様」

宇都宮日綱社長の後を継いだのが、日綱のもとで対外業務を担っていた中山理々専務である。浄土真宗赤羽山法善寺住職・中山理賢の息子で、大正13年に監査役に就任した当時、東京大学文学部哲学科を卒業したばかりの20代で、言わば理賢の名代だった。

42才となった昭和12年、欧米諸国の葬儀事情を視察するために、7か月間の旅に出る。そこで得た結論をもとに理々専務は、「欧米の火葬事業は遺体処理に徹して、少しも宗教的ニュアンスがない。一方で日本の火葬事業は寺院の延長であり、儀式の締めくくりを担っている。

欧米にはないその部分を大切にすべき」と日綱社長に訴えた。意見は採用され、その理念を社員に浸透させるため、始業前には朝礼を行って、毎朝、社員は誓いの言葉と誓願歌を斉唱するようになった。この朝礼儀式は、平成に入る頃まで続けられていた。

日綱が理々にポストを譲ったのは昭和19年。その宗教意識を映すのが、昭和16年7月16日、九段下の軍人会館(九段会館)で催した「東亜仏教圏お盆まつり」である。日中戦争で犠牲になった日中双方210万の霊位に対し、日本側の遺族及び在京の中国人華僑を招いて「魂祭り」を行った。

現在、法善寺を継ぐのは孫の中山斉住職。理々の後を継いだ冨士住職の養子であるため、生前の理々に会った回数は少ないが、その理念は聞いている。

「根底にあったのは敵味方の区別なく、慈悲の心で平等に接する“怨親平等”の思想です。生前敵対していたとしても、亡くなってしまえば同じ仏様だということで、日中戦争で亡くなった方を弔おうとお盆祭りを行ったんです」

理々は同年「仏教精神の研究と実践昂揚」を図る目的で日本仏教鑽仰会を設立して理事長に就く。仏教各派が毎年持ち回りで法要を勤める「お盆祭り」を東京博善協賛のもと主催し、戦時下も続けられ、戦後は「世界平和お盆祭り」として継続してきた。

一方、戦火の手は火葬場にも延び、砂村、町屋、落合、桐ヶ谷とも壊滅的な打撃を受け、そのまま敗戦を迎える。ハイパーインフレで資材が急騰するなか、同時に勃発した組合運動にも直面しながら、理々社長は再建復興に取り組む。そのかいあって昭和30(1955)年、桐ヶ谷火葬場の新火葬炉が完成し、昭和36年には日進企業合併によって堀ノ内火葬場を取り込む。その後、昭和40年の砂町火葬場の廃止をもって、町屋、落合、代々幡、桐ヶ谷、四ツ木、堀ノ内と、現在の6火葬場体制となる。同時に理々の会社以外の活動も活発化し、宗教界で存在感を増して行く。全日本仏教会常務理事、世界宗教者平和会議日本委員会常任委員、仏教タイムス社長などの要職を歴任した。

「うちは特殊の会社 寺院の延長に近い」

そうした対外活動も、東京都23区内の火葬を7割引き受け、安定した収益構造を持つ東京博善社長というポストに支えられていた。怨親平等の思想のもと、宗教経営を続けた理々は昭和56(1981)年7月27日、86才で亡くなった。追悼集『永遠に生きる』で、長く秘書課長として仕えた玉川忠一常務(当時、後に社長)が理々の姿勢を伝えている。

《老社長の考え方は、『うちは特殊の会社なのだ、株式会社の形態はとっているが世間の会社と違うのだ。むしろ、寺院の延長に近いものだ(中略)』等々、日常口癖のように薫陶を受けてきた》

理々体制のもと、安定的な経営が続いていた東京博善だが、死後、株の帰属を巡って大きく揺れる。元役員が証言する。

「中山、宇都宮、藤井の3家が大株主で筆頭は中山家でした。その株が小佐野賢治さんの会社に担保として入っていて、担保権を行使されて小佐野さんのものになったんです。小佐野さんとは(理々)後継の冨士(法善寺元住職)さんが親しかったそうです」

小佐野賢治は大正6年に生まれ戦中、軍需省に食い込んで財を成し、戦後はホテル、観光、運輸事業に進出して母体の国際興業を一大企業グループにした「昭和の怪商」である。田中角栄元首相とは「刎頸の友」といわれ、角栄逮捕につながったロッキード事件に連座して逮捕された。

冨士も理々没後、4年で亡くなり、葬儀には小佐野が顔を見せた。

「父の葬儀というか、その前の弔問にご本人が見えました。テレビで見知った顔だから覚えていました。ああいう方々は義理堅いんだな、と思いましたね」(中山斉)

帝国ホテル会長を務めるなど「ホテル王」にして関東有数のバス路線を持つ国際興業を率いる小佐野が、なぜ独占とはいえ事業規模の小さい東京博善の株に手を出したのか、その理由は明らかになっていない。また、保有期間が短く、グループの事業に取り込む前に手放した。国際興業の事情に詳しいベテラン経済記者が解説する。

「小佐野は長兄で下に3人の弟がいたんですが、昭和56年10月、三男の定彦が急死し、翌57年6月、次男の栄が亡くなった。『火葬場を持っているせいかも』と、東京博善を経営する気が失せて、友人の企業家に売却したんです」

その企業家が廣済堂グループを率いた櫻井義晃である。櫻井の登場で東京博善は新たなステージに立つとともに、漂流を始めることになる。

(文中敬称略)

【プロフィール】

伊藤博敏(いとう・ひろとし)/ジャーナリスト 1955年、福岡県生まれ。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件をはじめとしたノンフィクション分野における圧倒的な取材力に定評がある。『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(小学館)、『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)など著書多数。

※女性セブン2024年8月8・15日号

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