
最初に「医者の不養生」と言ったのは、江戸中期の発明家・平賀源内だったとされる。この時代、医学や科学はもちろん、出版、食、演芸などあらゆる文化が急速に発展し、その多くが現代まで続いている。250年の時を超える文化の礎を築いた「長寿の名医・名将」に、本当に大切な養生を学ぼう。
江戸時代の健康本『養生訓』に学ぶ
貸本屋から出版業を手がけ「江戸のメディア王」と呼ばれた蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)。彼が生きた1770年代の江戸の町では、庶民も当たり前に本を読むようになり、本草学者で儒学者の貝原益軒(かいばら・えきけん)による『養生訓』をはじめとする健康本や料理本などが次々とベストセラーとなった。
杉田玄白式アンチエイジング
江戸時代の一般庶民の平均寿命は30代後半とされており、その当時に75才まで生きたとされる徳川家康は、将軍という身分をおいても、かなりの長寿。日々健康管理に気を配り、自ら学んだ知識で薬を煎じてのんだといわれるほどの健康オタクだった。そんな家康が徹底していたのが「生ものを口にせず、旬のものを食べること」。
元明治学院大学教授で歴史学者の武光誠さんが言う。
「肥料に人糞が使われていたこともあり、生の野菜は毒だと考えられていました。また家康は未成熟な野菜や古い野菜を避けるために必ず旬の野菜を食べていたほか、井戸水も安全とはいえないと、煮沸したものを冷まして飲んでいたそうです」

家康以上の江戸のご長寿が、『解体新書』の翻訳などで知られる杉田玄白。85才まで長生きしたといわれ、亡くなる直前まで医師としての仕事をまっとうした。玄白の『養生七不可』の中でも、傷んだものや古いものは食べないように説いている。
「このほか、玄白は)食べすぎない、飲みすぎない”ことも重要だと残しています。日本人は当時から白米がメインで糖質に偏りがちだったので、糖質の摂りすぎへの警鐘でもあったと思います」(武光さん)
食べすぎや飲みすぎを避け、空腹の時間を設けることの重要性は、現代でも指摘されている。南越谷健身会クリニック院長の周東寛さんが言う。
「空腹時間を設け、空腹時に筋トレなどで体を動かすと、老化や寿命を制御する『サーチュイン遺伝子』が働いてミトコンドリア分裂が盛んになり、アンチエイジング効果、リバースエイジング効果があります。しかし、疲れたら養生を優先することも大切です」
食べすぎの害については、85才という長寿をまっとうしたといわれる益軒も述べている。益軒が重視していたのは、消化器をいたわる食事だと話すのは、元武蔵野学院大学教授の謝心範(しゃ・しんはん)さんだ。
「特に高齢者は消化する力が弱いので、やわらかいもの、温かいもの、新鮮なもの、熟したものを食べるべきだと説いています。味つけも重要で、塩、酢、辛いものは食べすぎない方がいい。過剰に摂ると、のどが渇いて水を飲みすぎて、体に水分がたまって臓器のバランスが崩れると益軒は考えました」
『養生訓』では「食後に長く安座してはいけない」「食後すぐに眠ることは禁物」「食後は300歩くらい歩き、時にはもっと歩くといい」などとも説いている。
「食後は副交感神経が優位になって眠くなるものですが、食休みのときに横になるのは避けて。消化が妨げられ、自律神経のバランスが悪くなりやすく、逆流性食道炎のリスクも上がります」(周東さん)
さらに「怒った後に食べない、食べた後に怒ってはいけない」「おやつは食べすぎなければいい」という教えもあった。
「怒りの感情は消化を悪くすると考えられています。またお菓子や酒は度が過ぎると害になりますが、食後に少し口にする程度なら、楽しみや生活の充実につながるとしています」(謝さん・以下同)
1700年以降になると江戸の町には駄菓子屋ができ、庶民でも自分のお金で気軽にお菓子を買うことができたという。
薬を飲むより大根・梅干し・甘酒
浮世絵師の葛飾北斎は70才を前に脳血管障害を患った際、自ら「薬」をつくって回復し、88才まで生き延びた。北斎自身が書き残したという『葛飾北斎伝』には、刻んだゆずを日本酒で煮詰め、白湯で割ってのむことで病気を克服したとある。また「竜眼(ライチに似た果実)と砂糖と焼酎でつくった”長寿の薬”のおかげで、88才まで病気になっていない」とも語っていたという。
当時の「薬」といえば漢方薬を指す。庶民には手が届きにくかったが、お金に余裕のある者は町医者が処方する「薬」をのむことができたとされる。だが『養生訓』『養生七不可』では、「本当に必要なとき以外、薬をのんではいけない」「すぐに薬を出す医者は信頼できない」としている。
「漢方薬とはいえ副作用のリスクがあり、時には病気よりも薬の方が害になりえることを知っていたのでしょう。現代でも日本人は)薬好き”といわれますが、安易に薬に頼らず、日々の食事などで自分の免疫力を養うことが大切なのです」

滋養をつけて、体を元気にする意味で重用されたのが卵。1785年に出版されたベストセラー『万宝料理秘密箱』の「玉子百珍」には100種以上の卵料理が収録され、「卵ふわふわ」などに代表される数々の卵料理が生まれた。だが、庶民にとっては憧れの食べ物だったという。江戸料理研究家の車浮代(くるま・うきよ)さんが語る。
「現代の感覚で言うと、1つ500円くらいの高級品で、ハレの日に食べる憧れの味でした。関東の卵焼きが甘いのは、同じく高級品だった砂糖と合わせて、お祝い事のための料理としてつくられたものが残っているためです」
贅沢品だった卵は“食物繊維とビタミンC以外をすべて含んだ完全栄養食”のため、お見舞いの品や病気の療養食としても好まれた。
「江戸時代から”かぜをひいたら卵酒を飲むといい””首にねぎを巻くといい”といわれていました。地方出身者が多かった江戸では、各地の民間療法が口伝えで広まり、人々が効果を感じたものだけが残っていったのです。
卵のように病気回復や健康増進にいいものを食べることは『薬食い』と呼ばれます。有名なものでは”しょうがと山椒をお湯に混ぜて飲むと軽い体調不良は治る””みかんの皮としょうがを煎じた汁を飲むとかぜが治る”などといわれていました」(武光さん)
中でも大根は、『徒然草』にも薬として記述があるほど、ポピュラーな薬食いだったようだ。東京農業大学名誉教授で農学博士の小泉武夫さんが言う。
「当時からかぜの諸症状に効くとされ、”大根をはちみつにつけた汁を飲むとのどの痛みに効く”というのは、現代でも広く実践されている民間療法です。また”おろし大根を足の裏につけると熱が下がる”ともいわれていました」
焼き魚や天ぷらに大根おろしをつけるのは、消化酵素のジアスターゼが胃や腸を整えるからだ。
大根と同じくメジャーな薬食いの1つが梅干し。いまでも整腸作用、食欲増進作用、殺菌効果などが知られているが、当時の人々は実体験として梅干しの効果を信頼していたのだろう。
「江戸時代から一般家庭にも常備されるようになり、疲労回復や夏バテ予防のために食べたり、子供の下痢止めとして湯にほぐして飲ませたり、つわりを軽くするためにも食べられていたようです」(小泉さん)

また、昭和の頃にたびたび見られた「梅干し湿布」も、江戸時代から続く健康法だ。
「梅干しを練った汁を和紙に染みこませて額やこめかみに貼ると頭痛が治るとされており、実際に梅干しの香り成分には痛みを鎮静する効果があると考えられています」(浮代さん)
いまでは当たり前に飲まれているお茶や甘酒も、当時は貴重な薬食いだった。
「茶が中国から伝来してきたときは、ただの飲み物ではなく、解熱や眠気覚まし、心身強壮などに効く高級な薬として考えられていました。甘酒は現代では冬の飲み物という印象が強いですが、実は夏の季語。これは不衛生な環境や、蚊を介した伝染病などによって夏に亡くなる人が格段に多かったことから、夏の栄養ドリンクとして飲まれていたためです。ブドウ糖や必須アミノ酸、ビタミン群が豊富な甘酒は、当時の人には劇的に効いたはず。いまでも)飲む点滴”といわれますが、実際に病院での栄養補給の点滴の成分とほぼ一致しています」(小泉さん・以下同)
江戸中期以降になると、年中を通して燗酒が広まった。
「『養生訓』にもあるように冷酒は体に悪いと考えられており、ひれ酒や骨酒などで楽しんでいました。ひれや骨を浸すと、うまみが出るだけでなく、コラーゲンやアミノ酸といった栄養素も摂取できる。また、菊の花を浸した菊花酒はリラックス効果があり眼精疲労にいいとされていました」
衛生整備が整っていなかった当時「薬味」はまさに、防腐のための”薬”だった。
「生魚が大好きな江戸の人々にとって、薬味はお腹を壊さないために必要なものでした。うど、みょうが、ねぎ、大葉、大根など5種類くらいの薬味を添えた刺し身のレシピも残っています」(浮代さん)
※女性セブン2025年3月13日号