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【全文公開】『ミヤネ屋』今秋で終了へ 宮根誠司、「すべてを投げ打つ覚悟」で卒業を決断 “関西のみのもんた”が全国区になるまでの軌跡と“人生の第3章”への意欲

20周年の節目に大きな決断を下した宮根誠司
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 20年にわたり平日午後2時台の「お茶の間の顔」に君臨する希代の司会者が、その座を降りる決断を下した。視聴率競争の最前線を走り抜けた彼は、なぜ絶頂期に自ら幕を引くのか。そこにはトップランナーゆえの悩みがあった──。

 近所のおっちゃん、おばちゃんの目線で世の中で起きているよくわからないことを専門家に尋ね、視聴者にわかりやすく解説する。2006年に関西ローカルでスタートした『情報ライブ ミヤネ屋』(日本テレビ系・読売テレビ制作)は生活者目線でニュースにツッコミを入れる宮根誠司(62才)と、クセモノ揃いのコメンテーターの軽妙なやり取りが評判を呼び、全国ネットに拡大してからも息の長い人気番組として定着した。

「巷にあふれるあらゆる情報を取り上げる『ミヤネ屋』では、芸能ニュースや政治家の不祥事を掘り下げることもあれば、北朝鮮や宗教問題にも果敢に切り込む。取材先から訴えられたり、ネットの“炎上”を招くこともありますが、宮根さんは常に視聴者に寄り添うことをモットーとし、何があっても“攻め”の姿勢を貫いてきました」(テレビ局関係者)

 昨年7月には放送開始から20周年の節目を迎え、宮根は「平時は型にはまらず楽しく、もし大きな災害や緊急事態が起こったときはいちばん頼りにされる。そんな“正体不明の番組”であり続けたい」と意気込みを語っていた。だが、この頃すでに宮根の胸には今後の人生を左右する大きな決断が秘められていたという。事情を知る芸能関係者が打ち明ける。

「実は先日、宮根さんからテレビ局側に『ミヤネ屋を終えたい』という申し出がありました。担当者は必死に引き留めたものの、宮根さんの決意が覆ることはなかったそうです。2年前に還暦を迎えた頃から、宮根さんは『安定にしがみつくのではなく、新しいことに挑戦したい』という思いを抱き、年齢的にも最後のチャンスと考えていたのだとか。『ミヤネ屋』が20周年を迎えたことでその思いを強くし、すべてを投げ打つ覚悟で番組からの卒業を決めたのだといいます」

 その後、宮根は読売テレビと日本テレビの上層部とも話し合いを重ね、10月期の改編をもって「ミヤネ屋」を終了することが決まったという。

「まだ話し合いを終えたばかりということもあり、現時点で後番組のことや、宮根さんの次の仕事に関しては何も決まっていないそうです。宮根さんにとっていまの状況は40才のときに会社勤めを辞めてフリーアナウンサーに転身したときと同じ心境で、一から出直す覚悟を決めているそうです」(前出・芸能関係者)

「ホンマに怒らなアカン」

 宮根が関西大学を卒業後、朝日放送に入社したのは1987年。就職活動中に偶然目にした掲示板がきっかけで、当時はアナウンサーに関する知識はおろか、マスコミの仕事にもほとんど関心がなかったという。面接でどんな仕事がしたいかと聞かれた宮根は「何でもいいです」と答え、アナウンサーとして採用されたことがその後の人生を決定づける転機となった。

終了が決まったミヤネ屋(番組HPより)
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「新人の頃は目立たない存在で極度の人見知り。標準語がうまくしゃべれずかなり苦労もしたようですが、レポーターとして出演した『おはよう朝日です』の生中継が評判を呼び、後に番組の司会を任されるまでになりました。

 当時、宮根さんを気に入り、飲みに連れ回していたのが、“西の視聴率男”と呼ばれたやしきたかじんさん(享年64)。スタジオの空気の重要さを説き『楽しむときはおれらもホンマに楽しまな伝わらへんし、怒るときはホンマに怒らなアカン』というたかじんさんの教えを宮根さんは大事にして、いまでも『緊張と緩和』を強く意識しているそうです」(別の芸能関係者)

 独立を決意し、フリーアナウンサーに転じたのは2004年。久米宏さん(享年81)が18年以上にわたってキャスターを務めた『ニュースステーション』(テレビ朝日系)を降板した年のことで、迷っていた宮根の背中を押したのもやしきさんだった。

「たかじんさんは、自ら朝日放送の社長に掛け合って『何とか(フリーに)ならしたってほしい』と頼みこんでくれたそうです。笑福亭鶴瓶さんも『全国区を目指せ』と励ましてくれた恩人のひとり。2人の後押しがなければ宮根さんはその後もサラリーマンを続けていたかもしれませんね」(前出・別の芸能関係者)

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