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倍賞千恵子、ライバル吉永小百合との「60年の座標」 庶民派と清純派で人気を二分 昭和から令和まで第一線を走り続け、今もスクリーンを彩る2人の現在地 

倍賞が庶民的な“太陽”だとすれば、吉永は可憐で憧れる“夢” 

 2人が日本映画界に登場したのは、高度経済成長期。1960年に吉永が日活で、1961年に倍賞が松竹でスクリーンデビューを果たすと、瞬く間にそれぞれの会社の顔となった。娯楽映画研究家で当時の銀幕事情に詳しい佐藤利明さんが語る。 

「当時は五社協定(※松竹、東宝、大映、新東宝、東映の5社が結んだ、専属俳優や監督の引き抜き・貸し借りを禁止した協定)があり異なる映画会社に所属する俳優が映画で共演するのは難しかったのですが、2人は同世代だったこともあり芸能誌での対談やテレビ番組での共演などの機会も多かった。ですから、実は昔から交流があったんです」 

 2人は演技だけでなく歌でも天賦の才を発揮した。1962年には、倍賞がデビュー曲『下町の太陽』でレコード大賞新人賞に、吉永が橋幸夫さん(享年82)とのデュエット曲『いつでも夢を』で同賞の大賞に輝いた。 

「その翌年にはそれぞれの楽曲に着想を得た、同名の映画が公開されました。どちらも当時人気を博していた、下町で働き懸命に生きる若者を描く“下町映画”で、2人は健気なヒロインを熱演しました。 

 ともに同世代の若者を中心に絶大な支持を得ていた女優ですが、“色”が少し違った。後に名作シリーズ『男はつらいよ』で寅さんの妹・さくらを演じる倍賞さんが等身大で庶民的な“太陽”だとすれば、貧しさに負けずひたむきに生きるヒロインを演じることが多い吉永さんは可憐で誰もが憧れる“夢”のような存在でした」(佐藤さん) 

『男はつらいよ 柴又慕情』の撮影の合間に談笑(前列右が倍賞、後列中央が吉永)
写真5枚

 庶民派と清純派で人気を二分し、時に周囲がライバル視したこともあった。そんな2人の初共演は1972年。『男はつらいよ』シリーズ第9作『柴又慕情』に吉永がマドンナ役で出演したのだ。 

「吉永さんはすでに空気が出来上がっている現場にひとりで入る恐怖もあったそうですが、監督からの『遊びに来るような気持ちでいらしてください』との手紙で心が軽くなったそう。倍賞さんとも楽しく共演できたといいます」(前出・映画関係者) 

 それ以降の共演作は長いキャリアのなかで『寅次郎恋やつれ』(1974年)と『母べえ』(2008年)のみ。吉永が主演作を増やす一方で、倍賞はさまざまな番手で作品に出演しており、いまもそれぞれの道を歩んでいる。 

「倍賞さんは60才で乳がんを発症し、数年前には肺がんに罹患。無理をしすぎないよう、いまのモットーは『がんばらない』だといいます。とにかく自然体で、しわや白髪といった老いを受け入れる姿勢にも通ずるものがあります。外出する際も普段着にすっぴんで、常に世間が求める“吉永小百合”であり続ける吉永さんとは対照的です」(芸能関係者) 

 役柄に真摯に向き合う姿勢は同じだが、表し方は異なるようだ。映画『てっぺんの〜』の役作りで吉永は初めて耳にピアスを開けた。 

「時代劇や戦中・戦後を描く作品の役ができなくなるリスクがありますが、ヒロインになりきるため“女は度胸だ”と自分で決めたそうです。対する倍賞さんは『TOKYOタクシー』でおしゃれなマダムを演じましたが、ピアスを開けずイヤリングでした。主演にこだわらない彼女は、“どんな役でも演じられるように”という思いがあるようです」(前出・芸能関係者) 

 映画デビューから60年余り。異なる道を歩んできた2人だが、根底を流れる気持ちは通じ合っている。2024年2月、「ブルーリボン賞」で主演女優賞を受賞した吉永は、前年度に同賞を獲得した倍賞と壇上で並んだ。 

「その場で『体が元気な限りは大好きな映画の世界でやらせていただきたい』と吉永さんが宣言すると、倍賞さんが『そうよ!』と力強くうなずく場面がありました。女優としての座標はまったく異なる場所にあっても、お互いに意識して高め合う“同志”なのでしょう」(前出・映画関係者) 

 2人はこれからも人々を導く太陽と夢であり続ける。 

※女性セブン2026年4月16・23日号 

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